源平藤橘・四大名家と血脈の政治(橘氏の没落・楠木氏が橘を称した理由)
日本神話・記紀 › 歴史的背景
源平藤橘(+伴氏)の四大名家体系。橘氏は橘奈良麻呂の変で衰亡、伴氏は応天門の変で没落、藤原氏が道長の「望月の歌」まで生き残った理由。楠木氏が最もマイナーな橘を称した戦略的意図。諏訪氏が四姓に頼らず生き残れた理由。
◆ 其の十八(スレ18)>>420–450
諸兄を処刑、なんつって
諸兄用BGMも用意せねばな
そういや
橘奈良麻呂の娘って千人の兵にskmdyされて死んだんだっけ?
そういや
橘奈良麻呂の娘って千人の兵にskmdyされて死んだんだっけ?
源平藤橘と並び称され、皇室は別とすれば日本の四大名家の1つ
異説・異論もあるが、万葉集の最終編集者たちの1人ともされる諸兄
(特に万葉集複数回編纂説の場合 最後の仕上げ役が大伴家持ではないかという説)
妹紅の兄たち4人の病死で権力を得たが、奥さんは妹紅の姉にあたる女性
東方本編に出て来ても不思議じゃない人物だな
異説・異論もあるが、万葉集の最終編集者たちの1人ともされる諸兄
(特に万葉集複数回編纂説の場合 最後の仕上げ役が大伴家持ではないかという説)
妹紅の兄たち4人の病死で権力を得たが、奥さんは妹紅の姉にあたる女性
東方本編に出て来ても不思議じゃない人物だな
>>424
四大氏族だな、「四姓」とも呼び、日本人の大抵はどれかに通じているとされる
特に戦国大名らは家格や威厳にも関与するので気にしたらしい
(実際は大半がいい加減なものなのは言うまでもない 徳川家康などは、当初藤原姓だが、
後には武家にとってはより箔がつく源氏に乗り換えている)
源平討魔伝の主人公・平悪七兵衛尉景清だって、平氏ではなく藤原氏
武士として平家に「出向・仕官」していたから一般には平姓で知られる
四大氏族だな、「四姓」とも呼び、日本人の大抵はどれかに通じているとされる
特に戦国大名らは家格や威厳にも関与するので気にしたらしい
(実際は大半がいい加減なものなのは言うまでもない 徳川家康などは、当初藤原姓だが、
後には武家にとってはより箔がつく源氏に乗り換えている)
源平討魔伝の主人公・平悪七兵衛尉景清だって、平氏ではなく藤原氏
武士として平家に「出向・仕官」していたから一般には平姓で知られる
橘氏は橘奈良麻呂の変で衰亡へ、伴氏は応天門の変で伊豆に流され、どちらも没落したのに、
藤原四兄弟の死、藤原仲麻呂(恵美押勝)の叛乱、藤原薬子の変など乗り越えて、
ついに藤原道長が「望月の歌」を読むに至ったのだから、怖い一族だよ
奈良の談山神社には中臣鎌足を描いた「八方睨みの像」が掲げられているが、
不比等と定慧を従えた鎌足が、凄まじい眼力で文字通りすべてを睨みつけている凄まじい絵だ
藤原四兄弟の死、藤原仲麻呂(恵美押勝)の叛乱、藤原薬子の変など乗り越えて、
ついに藤原道長が「望月の歌」を読むに至ったのだから、怖い一族だよ
奈良の談山神社には中臣鎌足を描いた「八方睨みの像」が掲げられているが、
不比等と定慧を従えた鎌足が、凄まじい眼力で文字通りすべてを睨みつけている凄まじい絵だ
橘氏の末裔を称した家で有名どころでは楠木氏が思い浮かんだのだが
源平藤橘のうちで一番マイナーな橘を選んだ理由は何かあったのだろうか
源平藤橘のうちで一番マイナーな橘を選んだ理由は何かあったのだろうか
伴氏の話になるといつも思い出しちゃうのがあのシーン
岡野玲子『陰陽師』第4巻
夜の応天門。清明と博雅の前に現れた伴善男の亡霊
口ずさむのは彼のご先祖が詠んだ、ウヨメン御用達のあの歌
大伴の 遠つ神祖の その名をば 大来目主と 負ひ持ちて 仕へし官
海ゆかば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みは せじと言立て
大夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもそ
大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に 奉ふものと 言ひ継げる 言の官ぞ
梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに
大君の 御門の守り 吾をおきて 人はあらじと いや立て 念ひし増る
なんかかなしいね
この国じゃ昔っから、本気で帝やお国ラブしてるヤツほどロクな死に方しねぇ
でもってロクでもねぇ政治屋ほど長生きして儲けて蔓延りやがる
……この国の憲政がまたぞろ死亡宣告されたこんな日の晩に
よりによってこんな場末のスレでこんな書き込みしてるのが、これまた、かなしい
岡野玲子『陰陽師』第4巻
夜の応天門。清明と博雅の前に現れた伴善男の亡霊
口ずさむのは彼のご先祖が詠んだ、ウヨメン御用達のあの歌
大伴の 遠つ神祖の その名をば 大来目主と 負ひ持ちて 仕へし官
海ゆかば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みは せじと言立て
大夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもそ
大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に 奉ふものと 言ひ継げる 言の官ぞ
梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに
大君の 御門の守り 吾をおきて 人はあらじと いや立て 念ひし増る
なんかかなしいね
この国じゃ昔っから、本気で帝やお国ラブしてるヤツほどロクな死に方しねぇ
でもってロクでもねぇ政治屋ほど長生きして儲けて蔓延りやがる
……この国の憲政がまたぞろ死亡宣告されたこんな日の晩に
よりによってこんな場末のスレでこんな書き込みしてるのが、これまた、かなしい
源平藤橘以外の名門だと諏訪氏(建御名方末裔、神姓)が際だって例外的に見える
あとは小野姓を称した横山氏とか、大蔵姓を称した秋月氏・筑前原田氏・筑後高橋氏とか
あとは小野姓を称した横山氏とか、大蔵姓を称した秋月氏・筑前原田氏・筑後高橋氏とか
中央から遠かったからじゃないかな
諏訪氏などは上にもあるとおり、信濃では古い土着勢力だし、四氏に拘る必要なし
楠氏も水銀(大和水銀鉱山、現奈良県宇陀市か?)を扱う商人兼土豪だったらしいから、
橘でも構わない(実際、橘氏の祖、難波皇子や美努王は奈良や河内のあたりに関わりがあった可能性あり)
橘諸兄も臣籍降下前には葛城王を名乗っていたし(親族や養育係の根拠地を名前にしている王族は多い)
あと難波皇子は物部氏と太子・蘇我氏の決戦で、太子方に味方して戦ったという
諏訪氏などは上にもあるとおり、信濃では古い土着勢力だし、四氏に拘る必要なし
楠氏も水銀(大和水銀鉱山、現奈良県宇陀市か?)を扱う商人兼土豪だったらしいから、
橘でも構わない(実際、橘氏の祖、難波皇子や美努王は奈良や河内のあたりに関わりがあった可能性あり)
橘諸兄も臣籍降下前には葛城王を名乗っていたし(親族や養育係の根拠地を名前にしている王族は多い)
あと難波皇子は物部氏と太子・蘇我氏の決戦で、太子方に味方して戦ったという
>>425
細かいこというけど別に家康から源氏名乗り始めたわけじゃないよ
その前の松平氏からずっと源氏を自称してる
ただ正式任官されるときに、朝廷の記録では先祖に藤原氏しか見つからなかったのでそうなった
その後は自称の源氏が正式なものになったけど
細かいこというけど別に家康から源氏名乗り始めたわけじゃないよ
その前の松平氏からずっと源氏を自称してる
ただ正式任官されるときに、朝廷の記録では先祖に藤原氏しか見つからなかったのでそうなった
その後は自称の源氏が正式なものになったけど
まあ源氏といっても清和源氏、村上源氏、花山源氏、宇多源氏、嵯峨源氏と色々あるからなぁ
リアルBASARAこと佐々木道誉でお馴染み近江佐々木氏や、その派生の京極氏・尼子氏などは宇多天皇子孫の宇多源氏
中世まで代々源氏長者を輩出した公家の名門久我家や、嘉吉の乱で足利義教を暗殺した播磨赤松氏などは村上天皇子孫の村上源氏
茨木童子との因縁で名高い渡辺綱が出た渡辺氏や、元寇以来の海賊衆・松浦水軍を率いた肥前松浦氏などは嵯峨天皇子孫の嵯峨源氏
そして最も一般的かつ武家社会では別格扱いだったのは清和天皇子孫の清和源氏
(実は清和源氏の祖・源経基は陽成天皇の子孫で、本当は陽成源氏じゃね?という説もあるが真偽不明)
平氏でも、最も一般的な桓武天皇子孫の桓武平氏以外に、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏などがあったり
更に桓武平氏は葛原親王流・万多親王流・仲野親王流・賀陽親王流の4系統に分かれ、
葛原親王流は高棟王流、善棟王流、高望王流の3系統に分かれると。
今話題の清盛が出た伊勢平氏や、後に源氏側で蜂起した三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などは高望王流(将門公もこの系譜)
「平家に非ずんば人に非ず」と豪語した平時忠や、後に堂上家(明治以降は子爵)となった西洞院家・平松家・長谷家・交野家・石井家などは高棟王流
あと伊勢平氏の流れを組み、室町幕府でしばしば権勢を振るった伊勢氏や、その庶流出の伊勢盛時(後の北条早雲)も桓武平氏高望王流だねぇ
武家に進出した藤原氏では、俵藤太こと藤原秀郷の系統(藤原北家魚名流)が最も一般的かな
平安末期に東北で権勢振るった奥州藤原氏とか、関東の名門結城氏、源頼朝の家人として九州に下った大友氏などはこの系統
一方、魚名流には鷲取流という別系統もあって、こちらからは霜月騒動で有名な安達氏、独眼竜こと仙台中納言政宗が出た伊達氏などが末裔にいる
リアルBASARAこと佐々木道誉でお馴染み近江佐々木氏や、その派生の京極氏・尼子氏などは宇多天皇子孫の宇多源氏
中世まで代々源氏長者を輩出した公家の名門久我家や、嘉吉の乱で足利義教を暗殺した播磨赤松氏などは村上天皇子孫の村上源氏
茨木童子との因縁で名高い渡辺綱が出た渡辺氏や、元寇以来の海賊衆・松浦水軍を率いた肥前松浦氏などは嵯峨天皇子孫の嵯峨源氏
そして最も一般的かつ武家社会では別格扱いだったのは清和天皇子孫の清和源氏
(実は清和源氏の祖・源経基は陽成天皇の子孫で、本当は陽成源氏じゃね?という説もあるが真偽不明)
平氏でも、最も一般的な桓武天皇子孫の桓武平氏以外に、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏などがあったり
更に桓武平氏は葛原親王流・万多親王流・仲野親王流・賀陽親王流の4系統に分かれ、
葛原親王流は高棟王流、善棟王流、高望王流の3系統に分かれると。
今話題の清盛が出た伊勢平氏や、後に源氏側で蜂起した三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などは高望王流(将門公もこの系譜)
「平家に非ずんば人に非ず」と豪語した平時忠や、後に堂上家(明治以降は子爵)となった西洞院家・平松家・長谷家・交野家・石井家などは高棟王流
あと伊勢平氏の流れを組み、室町幕府でしばしば権勢を振るった伊勢氏や、その庶流出の伊勢盛時(後の北条早雲)も桓武平氏高望王流だねぇ
武家に進出した藤原氏では、俵藤太こと藤原秀郷の系統(藤原北家魚名流)が最も一般的かな
平安末期に東北で権勢振るった奥州藤原氏とか、関東の名門結城氏、源頼朝の家人として九州に下った大友氏などはこの系統
一方、魚名流には鷲取流という別系統もあって、こちらからは霜月騒動で有名な安達氏、独眼竜こと仙台中納言政宗が出た伊達氏などが末裔にいる
天皇家起源の源平橘と藤原がひとまとめというのもよくわからん
「繁栄したから」というなら橘氏は二代目で転けちゃったし…
「繁栄したから」というなら橘氏は二代目で転けちゃったし…
源平藤橘に橘が入ったのは、おそらく平安中期まで橘氏がぎりぎり公卿を出していたり、橘嘉智子を出したりしたからだろうね。
伴氏などは、そこまでに公卿から脱落しているし。
源平藤橘以外だと、諏訪(神氏)が目立つというけど、別にそうでもないと思う。
例えば九州の阿蘇氏とか、出雲の出雲国造家とか、神官系には四氏以外の家が多い。
郡司出身が多いからね。
他にも、有名な戦国大名でも朝倉氏(日下部氏)・大内氏(多々良氏)・毛利氏(大江氏)と、結構バラバラ。
もっとも、既に425氏が指摘しているように、中世に至っては姓なんて後から名乗るもんだけど。
信長も、おそらく忌部姓ながら、「平」と自称してる。
松平氏のほか、島津氏も、「藤」から「源」へ乗り換えてるし。
正当性主張の道具だからね。
姓というものが、帰属意識的に意味を持ったのは、長く見て鎌倉前期までじゃないかな。
伴氏などは、そこまでに公卿から脱落しているし。
源平藤橘以外だと、諏訪(神氏)が目立つというけど、別にそうでもないと思う。
例えば九州の阿蘇氏とか、出雲の出雲国造家とか、神官系には四氏以外の家が多い。
郡司出身が多いからね。
他にも、有名な戦国大名でも朝倉氏(日下部氏)・大内氏(多々良氏)・毛利氏(大江氏)と、結構バラバラ。
もっとも、既に425氏が指摘しているように、中世に至っては姓なんて後から名乗るもんだけど。
信長も、おそらく忌部姓ながら、「平」と自称してる。
松平氏のほか、島津氏も、「藤」から「源」へ乗り換えてるし。
正当性主張の道具だからね。
姓というものが、帰属意識的に意味を持ったのは、長く見て鎌倉前期までじゃないかな。
この手の話題になるたびに、藤原道長の「の」って何ですか? と聞いた小学生の俺に対して
「貴族っぽさを演出している」という子供心にも無理のある返答をしたY先生のことを思い出す
もう二十年近く前になるが、Y先生、お元気だろうか
まさかそれから十年弱して「藤原妹紅」から辿って「の」の真実を知ることになるとは思ってなかったよ
「貴族っぽさを演出している」という子供心にも無理のある返答をしたY先生のことを思い出す
もう二十年近く前になるが、Y先生、お元気だろうか
まさかそれから十年弱して「藤原妹紅」から辿って「の」の真実を知ることになるとは思ってなかったよ
「姓名だと”の”をいれて、氏名では入れない」という説明、すごく一般化してるけど、実際の処ちょっと怪しいと思ってる。
たとえば仮名の史料や宣教師の史料を見たりすると、氏名でも「の」が入っている例がけっこうあったりするのだよね。
だから、件の原則は、存外新しい原則なのではないかな。
もちろん、今はそういう原則だから、今「みなもとのよりとも」で「ほうじょうよしとき」である理由は姓名・氏名の違いだけど。
別に「ほうじょうのよしとき」って呼んでも間違いじゃないかもしれないよね。
たとえば仮名の史料や宣教師の史料を見たりすると、氏名でも「の」が入っている例がけっこうあったりするのだよね。
だから、件の原則は、存外新しい原則なのではないかな。
もちろん、今はそういう原則だから、今「みなもとのよりとも」で「ほうじょうよしとき」である理由は姓名・氏名の違いだけど。
別に「ほうじょうのよしとき」って呼んでも間違いじゃないかもしれないよね。
ドイツの 「von」みたいなもんじゃねーの?
意味的にも合ってると思うけど
意味的にも合ってると思うけど
◆ 其の二十五(スレ25)>>640–645
蝦夷とも関連するが諸兄こと橘諸兄が若い頃(葛城王時代)郡山に行って蝦夷関連で色々画策していたという伝説が有るな
そこで宴が開かれ当初葛城王は不機嫌だったけど(何故不機嫌だったかは分からない)
そこの娘が機転を利かせて機嫌を直し何とか重くなりそうだった税金を下げることに成功したという
その後娘は帝(おそらく聖武天皇)の采女になって采女伝説に繋がっていくんだけど(郡山の采女伝説は大和物語の二つの話がミックスされてる猿池入水話と安積山の山の井の話)
それにしても橘諸兄が郡山に行ったという話の元ネタはなんだろう 安積山あたりは確かに昔から歌枕だけど 諸兄の時代はまだ蝦夷との戦いの最前線も最前線だし
藤原実方あたりは確実にこのへんに来てるから それと混ざった可能性もあるのだろうか
そこで宴が開かれ当初葛城王は不機嫌だったけど(何故不機嫌だったかは分からない)
そこの娘が機転を利かせて機嫌を直し何とか重くなりそうだった税金を下げることに成功したという
その後娘は帝(おそらく聖武天皇)の采女になって采女伝説に繋がっていくんだけど(郡山の采女伝説は大和物語の二つの話がミックスされてる猿池入水話と安積山の山の井の話)
それにしても橘諸兄が郡山に行ったという話の元ネタはなんだろう 安積山あたりは確かに昔から歌枕だけど 諸兄の時代はまだ蝦夷との戦いの最前線も最前線だし
藤原実方あたりは確実にこのへんに来てるから それと混ざった可能性もあるのだろうか
石背国と石城国の陸奥国からの分立と再統合が、
ちょうど諸兄(葛城王)の青年期と合致していたな(718〜724年頃)
ちょうど諸兄(葛城王)の青年期と合致していたな(718〜724年頃)
大和の郡山ではない?
安積郡だから紛れもなく陸奥のほうの郡山っすね
あの頃は石城・石背国の分割と再編入、柴田郡と刈田郡の分割、そして何より名取郡郡山(また紛らわしいww)から多賀城への国府移動とかがあったりと、
行政的に激動の時期だね
あの頃は石城・石背国の分割と再編入、柴田郡と刈田郡の分割、そして何より名取郡郡山(また紛らわしいww)から多賀城への国府移動とかがあったりと、
行政的に激動の時期だね
子供の頃に親の転勤で少しばかり郡山市に住んでいたことがあって、
地域の祭りとしてうねめ祭りが開催されていたのと、うねめ町という地名があったという
記憶は残っているが、背景となる伝承までは関心が広がっていなかったな
地域の祭りとしてうねめ祭りが開催されていたのと、うねめ町という地名があったという
記憶は残っているが、背景となる伝承までは関心が広がっていなかったな