日本神話って他の国の神話と違って「終末」がないんだよなぁ…
東征のような戦記はあっても、
ラグナロクやハルマゲドンのような神々が世界をすべて滅ぼすような
派手なぶん殴り合いをするような展開がない。
また、作った世界が気に入らないから、
一度すべてぶっ壊して新しいものに作り直しちゃえ(はぁと)って展開もない。
(他の神話だとよくあること。)
本当、日本の神様って俗っぽいな(東方の神々を見ればわかるが)w
ケガレ・穢れの民俗学的解釈
民間信仰・民俗 › 生活習俗・禁忌
神道・神社信仰 › 神道論
穢れ(ケガレ)とケ(日常エネルギー)の語源的関係の議論(気枯れ説)。ケガレが生命エネルギーの枯渇であるという解釈。厄は避けるものではなく供養・折り合いをつけるものという仏教的対処法。充電・循環のメタファーによる解説。
◆ 其の弐(スレ2)>>374–394
万が一、日本の神々がガチで殺りあっても
普通に倒された屍から新しい神がいっぱい生まれてきそうで困る
普通に倒された屍から新しい神がいっぱい生まれてきそうで困る
>>376
途中で滅ぼすわけにはいかないっていうのはまさにそのとおりなんじゃないかな
言い方を変えると、滅びたりせずに発展していくべきだという思想があったのかもしれない
伊邪那岐・伊邪那美が結ばれて国土や神々を生む吉善事
伊邪那美が神避り黄泉国へ去り、黄泉国のケガレで二神一体を妨げられる凶悪事
そして、ケガレを忌み憎くんで、凶悪事を吉善事に直そうと禊ぎを行い三貴子が誕生する
本居宣長は伊邪那岐・伊邪那美二神の出会いと離別の物語に
「吉善より凶悪生し、凶悪より吉善生しつつ、互いにうつりもてゆく理」
がすべて備わっていると考えたそうだ
そして、大局的には吉善が凶悪に勝つとも
平田篤胤の神話理解では
伊邪那岐・伊邪那美に下された命令「修理固め成せ」は
その後天照・須佐之男、天皇・大国主へと受け継がれている
ここらへんには世の中(世界?)はどんどん生み出され発展していくべきだという思想があるように思うんだ
そしてそれは国学でいきなり現れたものではなくて、もっと昔から日本人がもっていたんじゃないかな、と
途中で滅ぼすわけにはいかないっていうのはまさにそのとおりなんじゃないかな
言い方を変えると、滅びたりせずに発展していくべきだという思想があったのかもしれない
伊邪那岐・伊邪那美が結ばれて国土や神々を生む吉善事
伊邪那美が神避り黄泉国へ去り、黄泉国のケガレで二神一体を妨げられる凶悪事
そして、ケガレを忌み憎くんで、凶悪事を吉善事に直そうと禊ぎを行い三貴子が誕生する
本居宣長は伊邪那岐・伊邪那美二神の出会いと離別の物語に
「吉善より凶悪生し、凶悪より吉善生しつつ、互いにうつりもてゆく理」
がすべて備わっていると考えたそうだ
そして、大局的には吉善が凶悪に勝つとも
平田篤胤の神話理解では
伊邪那岐・伊邪那美に下された命令「修理固め成せ」は
その後天照・須佐之男、天皇・大国主へと受け継がれている
ここらへんには世の中(世界?)はどんどん生み出され発展していくべきだという思想があるように思うんだ
そしてそれは国学でいきなり現れたものではなくて、もっと昔から日本人がもっていたんじゃないかな、と
>>382
>世の中(世界?)はどんどん生み出され発展していくべきだという思想
大筋はそれで当たってると思うが、少し補足的に。
天孫降臨と国譲りの神話に見られるように、『古事記』や『日本書紀』の世界観ではその「世界」を主導(これもちと語弊はあるがまぁ便宜的な表現)する存在は割とコロコロ変わるけど、しかし「世界」をぶち壊そうとか考える神々は確かにいない。
その理由は俺が思うに、日本人(というか古代アジア人全部か?)の思考様式の根本に「循環」という観念があるからじゃないだろうか。
日本は当然として、大陸やインド北部には季節が廻りめぐる自然環境が存在した。
ハルマゲドーンが信じられた中東や北アフリカの砂漠地帯とか、ラグナロクが語られた北欧の極寒地とは違って、一年のなかで自然が絶えず移り変わり、春→夏→秋→冬ときてまた春が来る、そういう自然の循環の中で各民族は自分たちの精神文化を育んだ。
つまり「現在は辛く厳しい夏(もしくは冬)だが、もう少し耐えれば秋(もしくは春)がやって来る、だから頑張ろう」っていう経験則的な「未来の保証」という観念があった。
だから、例えばスサノオがどれだけ大暴れしようが即粛正という方向にはならないし、政治的に対立する大国主とも(形式だけでも)話し合いによる事態解決を目指そうとする。健御名方みたいな強硬派ですら、両腕もがれて逃げた挙句でも降参すれば見逃される。
悪く言えば優柔不断なんだろうけど、別の見方をすればえらく暢気で牧歌的なんだよね。ヨーロッパも今でこそガチガチのキリスト教文化圏だけど、それ以前には日本みたいな素朴な自然信仰があったらしい事が判っている。
それもこれも「季節の循環」という自然環境から派生した「未来の保証」があればこその「余裕」なんだと思う。
ついでに言うと、この「循環」の思想は生き物の生死にも適用されてる。輪廻転生とか、>>375が述べた「屍体から生ずる(てか涌く)新たな神々」なんかはまさにそれだよね。要は「死」んだら終わり、じゃなくてその後に必ず「再生」がセットになってる事が重要なわけ。
で、ここまで言った事って全部東方の世界観に当て嵌まるんだよね。まぁ神主がストーリーや設定に組み込んだ元ネタが、そもそもその辺を使ってるから当たり前なんだけど。
蓬莱人を除いて、人間にも妖怪にも神様にも「死」の概念自体はあるんだけど、彼岸の死後裁判や冥界の描写を見るとよっぽどでない限りは「転生=再生」がきっちり保証されてる。命がちゃんと「循環」してる。
だからこそ、あの暢気というか余裕さが生まれてくるんじゃないかと、まぁ俺はそう考えてるんだけどね。
ごめんちょっと長くなっちまった……
>世の中(世界?)はどんどん生み出され発展していくべきだという思想
大筋はそれで当たってると思うが、少し補足的に。
天孫降臨と国譲りの神話に見られるように、『古事記』や『日本書紀』の世界観ではその「世界」を主導(これもちと語弊はあるがまぁ便宜的な表現)する存在は割とコロコロ変わるけど、しかし「世界」をぶち壊そうとか考える神々は確かにいない。
その理由は俺が思うに、日本人(というか古代アジア人全部か?)の思考様式の根本に「循環」という観念があるからじゃないだろうか。
日本は当然として、大陸やインド北部には季節が廻りめぐる自然環境が存在した。
ハルマゲドーンが信じられた中東や北アフリカの砂漠地帯とか、ラグナロクが語られた北欧の極寒地とは違って、一年のなかで自然が絶えず移り変わり、春→夏→秋→冬ときてまた春が来る、そういう自然の循環の中で各民族は自分たちの精神文化を育んだ。
つまり「現在は辛く厳しい夏(もしくは冬)だが、もう少し耐えれば秋(もしくは春)がやって来る、だから頑張ろう」っていう経験則的な「未来の保証」という観念があった。
だから、例えばスサノオがどれだけ大暴れしようが即粛正という方向にはならないし、政治的に対立する大国主とも(形式だけでも)話し合いによる事態解決を目指そうとする。健御名方みたいな強硬派ですら、両腕もがれて逃げた挙句でも降参すれば見逃される。
悪く言えば優柔不断なんだろうけど、別の見方をすればえらく暢気で牧歌的なんだよね。ヨーロッパも今でこそガチガチのキリスト教文化圏だけど、それ以前には日本みたいな素朴な自然信仰があったらしい事が判っている。
それもこれも「季節の循環」という自然環境から派生した「未来の保証」があればこその「余裕」なんだと思う。
ついでに言うと、この「循環」の思想は生き物の生死にも適用されてる。輪廻転生とか、>>375が述べた「屍体から生ずる(てか涌く)新たな神々」なんかはまさにそれだよね。要は「死」んだら終わり、じゃなくてその後に必ず「再生」がセットになってる事が重要なわけ。
で、ここまで言った事って全部東方の世界観に当て嵌まるんだよね。まぁ神主がストーリーや設定に組み込んだ元ネタが、そもそもその辺を使ってるから当たり前なんだけど。
蓬莱人を除いて、人間にも妖怪にも神様にも「死」の概念自体はあるんだけど、彼岸の死後裁判や冥界の描写を見るとよっぽどでない限りは「転生=再生」がきっちり保証されてる。命がちゃんと「循環」してる。
だからこそ、あの暢気というか余裕さが生まれてくるんじゃないかと、まぁ俺はそう考えてるんだけどね。
ごめんちょっと長くなっちまった……
まあ終末論担当が仏教だったって事情もあるんだろうけど。
お盆に死者が戻ってくるという、仏教の天国地獄設定からすると変な信仰が残ってるあたりから言っても、
結局日本は気に入らない信仰を受け入れないって事なんじゃないかな、とも思うし。
お盆に死者が戻ってくるという、仏教の天国地獄設定からすると変な信仰が残ってるあたりから言っても、
結局日本は気に入らない信仰を受け入れないって事なんじゃないかな、とも思うし。
>>388
日本の仏教が終末論(いわゆる末法思想)的な事言い出したのは平安時代中期、藤原道長とか紫式部が生きてた頃だな。
その頃流行った浄土教は中国に伝えられた時点である程度そういう性格持ってたらしい。
で、それを更に煽ったのが源信って坊さんが書いた『往生要集』。
末法の世を苦に満ちた「穢土」だと断じ、だから楽に満ちた「浄土」に行かなきゃ救われないぞ、と。
ちなみに『往生要集』の地獄描写は当時から迫力があって人気?があったらしく、これの記述に基づいて「地獄絵」がたくさん描かれた。
この辺の思想が、平安末期から中世にかけての社会不安と重なって日本人の死生観にいくらか変化を加えたらしい。
一例を挙げると「死者が帰ってくる」時期は今でこそ夏のお盆や春秋のお彼岸が普通だが、中世以前ではお正月がその時期だったとか。
あと、ちょっと話が戻るけど>>373
先日考古学やってる教授から聞いたんだが、
諏訪地方周辺の遺跡から、カエルを象ったらしい文様の入った縄文土器が出土してるらしい。
ググってみたらヒット↓
ttp://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/daabii12.html
諏訪の古伝承では、侵略してきた諏訪明神に対抗した洩矢神?はカエルの姿だった。
そして縄文時代の遺物にはカエルらしき文様がある。
神主がどこまで知識持ってるのか判らんが、ひょっとして本当に洩矢の神は……
日本の仏教が終末論(いわゆる末法思想)的な事言い出したのは平安時代中期、藤原道長とか紫式部が生きてた頃だな。
その頃流行った浄土教は中国に伝えられた時点である程度そういう性格持ってたらしい。
で、それを更に煽ったのが源信って坊さんが書いた『往生要集』。
末法の世を苦に満ちた「穢土」だと断じ、だから楽に満ちた「浄土」に行かなきゃ救われないぞ、と。
ちなみに『往生要集』の地獄描写は当時から迫力があって人気?があったらしく、これの記述に基づいて「地獄絵」がたくさん描かれた。
この辺の思想が、平安末期から中世にかけての社会不安と重なって日本人の死生観にいくらか変化を加えたらしい。
一例を挙げると「死者が帰ってくる」時期は今でこそ夏のお盆や春秋のお彼岸が普通だが、中世以前ではお正月がその時期だったとか。
あと、ちょっと話が戻るけど>>373
先日考古学やってる教授から聞いたんだが、
諏訪地方周辺の遺跡から、カエルを象ったらしい文様の入った縄文土器が出土してるらしい。
ググってみたらヒット↓
ttp://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/daabii12.html
諏訪の古伝承では、侵略してきた諏訪明神に対抗した洩矢神?はカエルの姿だった。
そして縄文時代の遺物にはカエルらしき文様がある。
神主がどこまで知識持ってるのか判らんが、ひょっとして本当に洩矢の神は……
仏教は六道輪廻を苦と考えて、それからの解脱と涅槃への到達を目指したわけだが
そこにある種の自殺願望、希死念慮のようなものを感じてしまう
そこにある種の自殺願望、希死念慮のようなものを感じてしまう
仏教やキリスト教なんかだと、現世は神や仏の教えを守って生きていき、
死後に魂の救済を求めるんだよな。
でも神道だと別にそんなことなくて、現世で清く正しく生きなさい。
死んだら神霊となって子孫を見守る、だからな。
>>387
神道の教えを見るに、「循環」という理念はもともと日本人にはなかったんじゃなかろうか。
巡る季節も、循環ではなく規則正しい流れ。
円ではなく波。
であればこそ、他の宗教のような世界の滅亡→再生という神話がなかったのではないかと思う。
死後に魂の救済を求めるんだよな。
でも神道だと別にそんなことなくて、現世で清く正しく生きなさい。
死んだら神霊となって子孫を見守る、だからな。
>>387
神道の教えを見るに、「循環」という理念はもともと日本人にはなかったんじゃなかろうか。
巡る季節も、循環ではなく規則正しい流れ。
円ではなく波。
であればこそ、他の宗教のような世界の滅亡→再生という神話がなかったのではないかと思う。
>>392
うーん、いや今日における「神道」の教説は確かにその通りなんだが…
歴史的にみると日本の神信仰には少なくとも5度の画期があって、
1 縄文弥生以来の地域・部族ごとに別れたアニミズム的自然信仰←>>387
↓
2 国家的な祭祀を伴う中央集権型神祇信仰(「記紀」成立~)
↓
3 伊勢神道や両部神道の流れを組む本地垂迹説に基づく神仏習合(鎌倉南北朝~)
↓
4 賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤が起こした「国学」の思想に基づく復古神道(江戸後期~)
↓
5 4を天皇制近代国家のいわゆる「国教」として推し進めた国家神道(明治~)
という流れがあり、現代日本の神道はだいたい4or5付近で唱えられた「教説」が基軸になってる。
そもそも1とか2辺りの時代の人々にとって、前の世代から語り伝えられてきた神話は本当に「歴史」だったんだな。
そこに仏教やら儒教やら陰陽五行やらが入ってきて思想的な「解釈」が行われていく。
で、近世の国学→復古神道に到って「現世を清く正しく~~」という「教説」が生み出されていくのね。
ただ日本らしさというか他の地域や民族と違って面白いのは、いかに3とか4が興隆しても古い1や2が失われない点だと思う。
東方の世界観は、おおむね1を基本として2~4辺りの良さげな所を適時追加してる感じかな。
うーん、いや今日における「神道」の教説は確かにその通りなんだが…
歴史的にみると日本の神信仰には少なくとも5度の画期があって、
1 縄文弥生以来の地域・部族ごとに別れたアニミズム的自然信仰←>>387
↓
2 国家的な祭祀を伴う中央集権型神祇信仰(「記紀」成立~)
↓
3 伊勢神道や両部神道の流れを組む本地垂迹説に基づく神仏習合(鎌倉南北朝~)
↓
4 賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤が起こした「国学」の思想に基づく復古神道(江戸後期~)
↓
5 4を天皇制近代国家のいわゆる「国教」として推し進めた国家神道(明治~)
という流れがあり、現代日本の神道はだいたい4or5付近で唱えられた「教説」が基軸になってる。
そもそも1とか2辺りの時代の人々にとって、前の世代から語り伝えられてきた神話は本当に「歴史」だったんだな。
そこに仏教やら儒教やら陰陽五行やらが入ってきて思想的な「解釈」が行われていく。
で、近世の国学→復古神道に到って「現世を清く正しく~~」という「教説」が生み出されていくのね。
ただ日本らしさというか他の地域や民族と違って面白いのは、いかに3とか4が興隆しても古い1や2が失われない点だと思う。
東方の世界観は、おおむね1を基本として2~4辺りの良さげな所を適時追加してる感じかな。
◆ 其の弐(スレ2)>>833–860
他のスレでも書いたんだけど
ヤツカノイカヅチの一柱たるホノイカヅチを依姫は降ろしてたけど
この神様記紀神話ではケガレに満ちた黄泉にいたんだよね
月にケガレを持ち込んじゃあかん言いつつこんなことやってるけどどうなってるんだ
ヤツカノイカヅチの一柱たるホノイカヅチを依姫は降ろしてたけど
この神様記紀神話ではケガレに満ちた黄泉にいたんだよね
月にケガレを持ち込んじゃあかん言いつつこんなことやってるけどどうなってるんだ
>>833
Aから見て穢れてるものがBから見て穢れてるとは限らないんだぜ。
記紀で穢れたものとして取り扱われてるって事は旧勢力では神聖視されたって事なんじゃね。
悪魔の元ネタは豊穣神とかよくある話。
東方って基本的に正史に反逆するのが好きっぽいから記紀みたいな正当な神話はあんま鵜呑みにしないほうが良いとオモ。
つか、八雷神ってもしかしてヤマタノオロチの暗喩じゃねぇかと思いだした俺ガイル。
大岩が山脈を表すのだとしたら山脈を越えた二つの部族のルーツを統一するのに良い感じに纏められてる気がする。
というか桃が怪しすぎる。桃太郎的な意味で。
Aから見て穢れてるものがBから見て穢れてるとは限らないんだぜ。
記紀で穢れたものとして取り扱われてるって事は旧勢力では神聖視されたって事なんじゃね。
悪魔の元ネタは豊穣神とかよくある話。
東方って基本的に正史に反逆するのが好きっぽいから記紀みたいな正当な神話はあんま鵜呑みにしないほうが良いとオモ。
つか、八雷神ってもしかしてヤマタノオロチの暗喩じゃねぇかと思いだした俺ガイル。
大岩が山脈を表すのだとしたら山脈を越えた二つの部族のルーツを統一するのに良い感じに纏められてる気がする。
というか桃が怪しすぎる。桃太郎的な意味で。
住吉三神もそれと対になるさっき元ネタその2か?って
俺が書いたワダツミ三神は黄泉の穢れから出来たしなぁ…
儚月抄は穢れは重要ワードっぽいな…
民俗学的にはケガレってのは色々な説があるよな…そのなかで
ケガレを浄化する事による逆転による神聖化(新谷)、
これを考えるとおかしくは無い筈…?
アマテラスなんかも住吉ワダツミのあとにケガレから生まれたしな。
俺が書いたワダツミ三神は黄泉の穢れから出来たしなぁ…
儚月抄は穢れは重要ワードっぽいな…
民俗学的にはケガレってのは色々な説があるよな…そのなかで
ケガレを浄化する事による逆転による神聖化(新谷)、
これを考えるとおかしくは無い筈…?
アマテラスなんかも住吉ワダツミのあとにケガレから生まれたしな。
両目を洗った時にできたのがアマテラスとツクヨミ、鼻を洗った時にできたのがスサノオだっけ
穢れから神が生まれたってことは
とある有力一族の指導者が死亡(死体=穢れ)→
生前の功績が称えられ英霊化したってことを表してるのかな
と適当に言ってみる
とある有力一族の指導者が死亡(死体=穢れ)→
生前の功績が称えられ英霊化したってことを表してるのかな
と適当に言ってみる
落とした穢れが人格化したんじゃなくて、「雪ぐ行為」の方から発生したのかと思ってたが。
なんだ、唐辛子単体が穢れ、唐辛子を隠し味に使った料理が三貴子みたいな。
なんだ、唐辛子単体が穢れ、唐辛子を隠し味に使った料理が三貴子みたいな。
穢れから生命が発生するってのは豊穣神殺しの神話の影響が基層にあるような気も。
死や汚物のような穢れが生命の発生に結びつくみたいな。
死や汚物のような穢れが生命の発生に結びつくみたいな。
たぶんねケガレをそのものが人格化するわけじゃ無く、
祓【浄化】による価値の逆転=神格化という事だと思う。
人格化は神話を語る上での方便じゃないかな?
あとケ【日常】とハレ【非日常】の境界領域説、
ケ【日常】ハレ【神聖】ケガレ【不浄】とする説等が有るけど、
ケガレより生まれた神聖なものを考えると新谷説が解かり易いんだよな~
と思うがどうだろう?(確か一番新しい説だから当然かも知れんが)
それに死体や糞尿から何か神聖なものが生まれた系の神話は、
死体が肥料に成り、糞尿が五穀を実らすという
穢れた物からの新しい命・物の誕生がその原初だと思う。
祓【浄化】による価値の逆転=神格化という事だと思う。
人格化は神話を語る上での方便じゃないかな?
あとケ【日常】とハレ【非日常】の境界領域説、
ケ【日常】ハレ【神聖】ケガレ【不浄】とする説等が有るけど、
ケガレより生まれた神聖なものを考えると新谷説が解かり易いんだよな~
と思うがどうだろう?(確か一番新しい説だから当然かも知れんが)
それに死体や糞尿から何か神聖なものが生まれた系の神話は、
死体が肥料に成り、糞尿が五穀を実らすという
穢れた物からの新しい命・物の誕生がその原初だと思う。
「ケ枯れ」説ってどうなの。俗説的には
循環論がそこはかとなく仏教的というか…
でも俺はどうなのこれ?と思うんだが。
民俗学を専攻しとった人とか居ないですかな…
でも俺はどうなのこれ?と思うんだが。
民俗学を専攻しとった人とか居ないですかな…
谷川健一はケ=外来の威霊で、ケガレとは「気離れ」だと論じてたな
ケがしばしば「普段・日常」の意味で使われるのはハレと対応する形で表現されるからで、
本来の意味ではないとの事
ケがしばしば「普段・日常」の意味で使われるのはハレと対応する形で表現されるからで、
本来の意味ではないとの事
穢れ:神道の観念で、清浄ではない汚れて悪しき状態の事を指す。
元々は自然発生的に起こる死や病気の事を指したが、「罪穢れ」と
呼ばれるように人為的な行為によってもたらされた状態の事も指す
ようになった。現在の民俗学の定義ではケガレを「気枯れ」と定義し
祭りなどの儀式によって「気良く(清く)する」という学説も存在している。
こんな話もどっかで見かけた
元々は自然発生的に起こる死や病気の事を指したが、「罪穢れ」と
呼ばれるように人為的な行為によってもたらされた状態の事も指す
ようになった。現在の民俗学の定義ではケガレを「気枯れ」と定義し
祭りなどの儀式によって「気良く(清く)する」という学説も存在している。
こんな話もどっかで見かけた
>>844-845
まぁ、民俗学を専攻していたわけでもない素人意見だけど穢れにしても厄にしても解釈が変わってきてるような気はするかな。
厄=役のソースが無いのでどうこう言えないけど厄が元々は役であったのなら役を受け入れるための心構えを持とうという本来の意味が変化して厄として回避するべき事象として扱われるようになった気がする。変化したというよりは概念的にわかりやすく浸透したのかもと言えるかもしれない。ケガレにも同じ事が言えて、穢れの原型に気枯れがあるのだとすればケ(=日常)が枯れ(=活力が低下)てるところを祭りなんかで回復させようという意味合いだったのがやはり回避するべきものとして扱われ始めたようにも思う。だからまぁ、桜井さんの本読んだわけじゃないのでどうこう言えるもんじゃないのだけど、概要見る限りじゃ循環モデルつっても定期的にそれを繰り返す事を循環と評しているだけで、仏教の輪廻的な循環様式とは違うような気がする。ちなみに本読んでないので桜井さんのハレ・ケ論と俺の中の桜井さん的ハレ・ケ論は異なる可能性もあるのでその辺はお許し願いたく候。
まぁ、民俗学を専攻していたわけでもない素人意見だけど穢れにしても厄にしても解釈が変わってきてるような気はするかな。
厄=役のソースが無いのでどうこう言えないけど厄が元々は役であったのなら役を受け入れるための心構えを持とうという本来の意味が変化して厄として回避するべき事象として扱われるようになった気がする。変化したというよりは概念的にわかりやすく浸透したのかもと言えるかもしれない。ケガレにも同じ事が言えて、穢れの原型に気枯れがあるのだとすればケ(=日常)が枯れ(=活力が低下)てるところを祭りなんかで回復させようという意味合いだったのがやはり回避するべきものとして扱われ始めたようにも思う。だからまぁ、桜井さんの本読んだわけじゃないのでどうこう言えるもんじゃないのだけど、概要見る限りじゃ循環モデルつっても定期的にそれを繰り返す事を循環と評しているだけで、仏教の輪廻的な循環様式とは違うような気がする。ちなみに本読んでないので桜井さんのハレ・ケ論と俺の中の桜井さん的ハレ・ケ論は異なる可能性もあるのでその辺はお許し願いたく候。
その、なんだ
改行を…
改行を…
穢れと生命と言えば、死の穢れの表象である炎雷神の司る属性の「雷」「火」「水」は
合わせれば生命の始原になりうる要素だったりするからな。
まあ古代の人が、そこまで分かってたかどうか怪しいけど…
合わせれば生命の始原になりうる要素だったりするからな。
まあ古代の人が、そこまで分かってたかどうか怪しいけど…
求聞史紀で神霊は「亡霊の内~」てあって、亡霊になるのは人間だけだとある
それでちょっと思ったんだけど、記紀の神代神話は主に神を祭る人々の時代だという解釈がある
例えばアマテラスは、アマテラス大神の名を負った、アマテラス大神を祭る人で
スサノヲの狼藉の時に死んで、天岩戸の祭事で祭る神として再生した、とか
これってちょっと似てるような気がするんだ
こういう話、たぶん和辻哲郎とかだと思うんだけど、詳しい人いる?
それでちょっと思ったんだけど、記紀の神代神話は主に神を祭る人々の時代だという解釈がある
例えばアマテラスは、アマテラス大神の名を負った、アマテラス大神を祭る人で
スサノヲの狼藉の時に死んで、天岩戸の祭事で祭る神として再生した、とか
これってちょっと似てるような気がするんだ
こういう話、たぶん和辻哲郎とかだと思うんだけど、詳しい人いる?
>>851
仏教、というかうちは醍醐なので参考にならんが
厄は避けられるものじゃないようだ
代表的なのは年厄だけども、これを司る神様を供養していい具合に取り計らってもらおうって対処する
餅に厄を封じ込めたりってのは確かにある
けど、折々の発言を聞いている限り、基本的には避けられぬと考えてるようだ
星供も名前からして星宿を供養するものだしなあ
まぁ、横で見てるだけだから詳しくは知らんけども
仏教、というかうちは醍醐なので参考にならんが
厄は避けられるものじゃないようだ
代表的なのは年厄だけども、これを司る神様を供養していい具合に取り計らってもらおうって対処する
餅に厄を封じ込めたりってのは確かにある
けど、折々の発言を聞いている限り、基本的には避けられぬと考えてるようだ
星供も名前からして星宿を供養するものだしなあ
まぁ、横で見てるだけだから詳しくは知らんけども
民俗スレの住民層が素で分からない
神職も居そうだわ
神職も居そうだわ
東方に惹かれて民俗学、考古学関係の本を読み始めた奴も居るだろうけど
どちらかというと逆が多そうな気がする
どちらかというと逆が多そうな気がする
◆ 其の五(スレ5)>>902–909
天皇を神格化させる為に穢れって概念出来たんだよなぁ
元々穢れって怪我の意味だし神格化の穢れだったら月詠も綿月姉妹も月の都から叩き出されているよな
まぁ、綿月姉妹は穢れあると自分で言っていたから大丈夫か
元々穢れって怪我の意味だし神格化の穢れだったら月詠も綿月姉妹も月の都から叩き出されているよな
まぁ、綿月姉妹は穢れあると自分で言っていたから大丈夫か
穢れは気枯れで衰えなんかも意味してたような
穢れ=気枯れ=生命力の枯渇って話も聞いたけど。
穢れが気枯れというのは1970年代にハレとケの考えに穢れを加えて理解しようと考え出されたものらしいね。
ケとケガレは語源が異なりケが枯れた状態をケガレというのはおかしいし、
それ以前の問題としてハレの対がケなのも結構強引に設定されてるそうだけど。
ケとケガレは語源が異なりケが枯れた状態をケガレというのはおかしいし、
それ以前の問題としてハレの対がケなのも結構強引に設定されてるそうだけど。
>>906
穢れは気枯れだっていう説は前からなんか直観的に納得行かなかったけど、
理論としても結構新しい説だったのね。ありがとう。
しかしハレとケまで強引な説だというのは初耳です。
同じハレに分類される儀式でも騒と寂の二つの系統に大別される傾向があったりして、
単純に日本人の雰囲気観をハレとケという二項対立に還元出来るかどうかは疑問であるというのは
読んだ事あるけど。
『野生の思考』で「穢れとは、少なくとも北アメリカのインディアンの考え方では」と前置きされてから、
「それぞれ『清浄(概念として結ばれていない)』な状態にとどまるべき二項の間に、緊密すぎる連接が生ずること」
と説明されているけど、これは結構(全部ではないよ)日本人の穢れ観にも当てはまるんじゃないかと思ってる。
穢れであると言われるもの(殺生や異界との接触など。或いは殺生も異界との接触に含まれる?)はその行為の神秘性から、
象徴的意味付けが行われやすく(異界=カオス、理解出来ないもの、とすればそこに秩序が要求される)、
結果として世界観ともいうべき「万物の象徴的意味体系」を改変しかねない行為となる。
つまり穢れとは(旧来の神話から見て)逸脱した新しい神話を構築する行為、それによって人々の中に異なる世界観を描き出す行為、
それによって思想的に人を異界的な領域に染める行為ではないかと考えられる。
これだと同じ神秘的行為であっても、改変せずその世界観を繰り返し確認して(世界の秩序の強固さを実感させて)人々に安心を与える
「儀式」が「聖」として尊重されることの説明がつくとおもう。
そしてこの象徴的意味連絡網世界に萌芽した「カオス(混線地帯)」を、世界観に生じた「怪我」と表現出来るかもしれないと
>>902を見て思ったんだ。怪我は修復される際、出血(穢れにおいて重要な役割を果たすもの)を伴い、
それが治癒(=秩序化)される際、骨折と骨膜性骨化のように一時的に怪我以前よりも太く大きなものになったり、
火傷と癒着のように本来とは違う部分と意味連接を持ったり(特に癒着先も「怪我」している場合にくっつきやすい)
する。穢れが忌まれたのは理解できない秩序が新たに生まれることを制限しようとしているのかもしれない。
世界観というのは倫理観と密接に関係していて、
その増殖を制限しなければ共同体の形成維持がとても困難になるから。
穢れは気枯れだっていう説は前からなんか直観的に納得行かなかったけど、
理論としても結構新しい説だったのね。ありがとう。
しかしハレとケまで強引な説だというのは初耳です。
同じハレに分類される儀式でも騒と寂の二つの系統に大別される傾向があったりして、
単純に日本人の雰囲気観をハレとケという二項対立に還元出来るかどうかは疑問であるというのは
読んだ事あるけど。
『野生の思考』で「穢れとは、少なくとも北アメリカのインディアンの考え方では」と前置きされてから、
「それぞれ『清浄(概念として結ばれていない)』な状態にとどまるべき二項の間に、緊密すぎる連接が生ずること」
と説明されているけど、これは結構(全部ではないよ)日本人の穢れ観にも当てはまるんじゃないかと思ってる。
穢れであると言われるもの(殺生や異界との接触など。或いは殺生も異界との接触に含まれる?)はその行為の神秘性から、
象徴的意味付けが行われやすく(異界=カオス、理解出来ないもの、とすればそこに秩序が要求される)、
結果として世界観ともいうべき「万物の象徴的意味体系」を改変しかねない行為となる。
つまり穢れとは(旧来の神話から見て)逸脱した新しい神話を構築する行為、それによって人々の中に異なる世界観を描き出す行為、
それによって思想的に人を異界的な領域に染める行為ではないかと考えられる。
これだと同じ神秘的行為であっても、改変せずその世界観を繰り返し確認して(世界の秩序の強固さを実感させて)人々に安心を与える
「儀式」が「聖」として尊重されることの説明がつくとおもう。
そしてこの象徴的意味連絡網世界に萌芽した「カオス(混線地帯)」を、世界観に生じた「怪我」と表現出来るかもしれないと
>>902を見て思ったんだ。怪我は修復される際、出血(穢れにおいて重要な役割を果たすもの)を伴い、
それが治癒(=秩序化)される際、骨折と骨膜性骨化のように一時的に怪我以前よりも太く大きなものになったり、
火傷と癒着のように本来とは違う部分と意味連接を持ったり(特に癒着先も「怪我」している場合にくっつきやすい)
する。穢れが忌まれたのは理解できない秩序が新たに生まれることを制限しようとしているのかもしれない。
世界観というのは倫理観と密接に関係していて、
その増殖を制限しなければ共同体の形成維持がとても困難になるから。
>>906
感覚的にも、「気枯れ」では、穢がそれ自身から生じているような違和感があり
触れることが出来る物、禊ぐことができるものとしては説明が適当ではないとは思っていました
気枯れ=穢なら、イザナミの全身にいた雷神や黄泉醜女はイザナミから誕生したことになりますが
実際はそうではありませんし
感覚的にも、「気枯れ」では、穢がそれ自身から生じているような違和感があり
触れることが出来る物、禊ぐことができるものとしては説明が適当ではないとは思っていました
気枯れ=穢なら、イザナミの全身にいた雷神や黄泉醜女はイザナミから誕生したことになりますが
実際はそうではありませんし
◆ 其の十五(スレ15)>>61–85
東方で月が穢れのない世界なのは
月=黄泉(穢れに満ちた世界)という国学の世界観と関係あるんだかないんだか
真逆すぎて分からない。
月=黄泉(穢れに満ちた世界)という国学の世界観と関係あるんだかないんだか
真逆すぎて分からない。
月には不老不死の世界があるなんて考え方もあるようだからそっちじゃね
月読命が変若水持ってると言われるのもそれに関連してる
月読命が変若水持ってると言われるのもそれに関連してる
メタい考え方をするなら、まず、地上が穢れているというところがスタート地点で、
それから逃れられている場所というイメージの候補に月があったのかなと思ってみたり…
それから逃れられている場所というイメージの候補に月があったのかなと思ってみたり…
竹取物語の
>いざ、かぐや姫。穢きところにいかでか久しくおはせん。
だろう清浄な月と穢れた地上って関係の元ネタは
>いざ、かぐや姫。穢きところにいかでか久しくおはせん。
だろう清浄な月と穢れた地上って関係の元ネタは
月は死の世界、無の世界って捉え方も多々あるよな
ただケガレって仏教の思想でそれ以前は怪我のことだったはず、月人のケガレの基準があれだったら、イザナギやイザナミとかの上位神ですらケガレになるし……ゼウス?あぁ、あれはなぁ
ただケガレって仏教の思想でそれ以前は怪我のことだったはず、月人のケガレの基準があれだったら、イザナギやイザナミとかの上位神ですらケガレになるし……ゼウス?あぁ、あれはなぁ
ケガレの起源については学界でも諸説あって
「よくわからん」てのが現状だったような
「よくわからん」てのが現状だったような
2週間ぶりのネットだから前スレへレスする今日このごろ
前スレ>>967
特に民俗学ではそっちも重要な気がする
伝承ひとつをとるにしても、それを成り立たせた風土がある
この学問、口頭で伝えられてきたものを扱うことが多いわけで
見る人の主観・育ってきた文化に大きく影響されてしまう文献資料ばかりに目を向けてしまうと
視点のズレが大きく生じてしまうんじゃないか
みたいなことを知り合いの行者と話してて思わされたのですよ
修験道の関係はどうも研究者と行者で見てるものが違う
「宮家さんはある程度、信用できる」らしいんですが、それでも納得できないとこも多いそうでw
前スレ>>967
特に民俗学ではそっちも重要な気がする
伝承ひとつをとるにしても、それを成り立たせた風土がある
この学問、口頭で伝えられてきたものを扱うことが多いわけで
見る人の主観・育ってきた文化に大きく影響されてしまう文献資料ばかりに目を向けてしまうと
視点のズレが大きく生じてしまうんじゃないか
みたいなことを知り合いの行者と話してて思わされたのですよ
修験道の関係はどうも研究者と行者で見てるものが違う
「宮家さんはある程度、信用できる」らしいんですが、それでも納得できないとこも多いそうでw
民俗学の柳田國男が設定したハレとケの概念にケガレという文化要素介入させた考えからは問題がある気がしないでもない
民間信仰の構造的理解を求めたところから出発してるから一概にいえることじゃないが、まあ分りやすいし
谷川士清が『倭訓栞』に示した「ケガレは気枯れ、あるいは気の状態が離れるという気離れか?」って説明が一般的(?)なのかね
民間信仰の構造的理解を求めたところから出発してるから一概にいえることじゃないが、まあ分りやすいし
谷川士清が『倭訓栞』に示した「ケガレは気枯れ、あるいは気の状態が離れるという気離れか?」って説明が一般的(?)なのかね
「ケガレ」が気が枯れている状態だとすると、「ケガレが移る」という現象がいまいちピンと来なくなる
物理的に汚物が付着しているような状態を精神的・社会的に敷衍した概念とするのならこの辺が分かりやすいのだけど
気が枯れている人に触れると、気を吸い取られるようなイメージ?
でも、そうすると吸い取った人はケガレていない状態になるはずだし……
物理的に汚物が付着しているような状態を精神的・社会的に敷衍した概念とするのならこの辺が分かりやすいのだけど
気が枯れている人に触れると、気を吸い取られるようなイメージ?
でも、そうすると吸い取った人はケガレていない状態になるはずだし……
ハレ、ケ、ケガレの循環構造を考えるとなんら不思議ではないな
そもそもケガレには多義性があるしね
そもそもケガレには多義性があるしね
鬱病が周りに伝染してくようなもんかね>ケガレがうつる
個人的なイメージだがケガレってのは生気を侵蝕する何かって感じがするな
なるほど、平安時代に男が通ってこなくなることを女視点で
「ヨガレ(夜離れ)」とか言ったらしいけど、
同じような感じで「ケガレ(気離れ)」と称する、って考え方なのか
気=運気と考えると「ケガレがうつる」はわかりやすいのかな
「幸運が離れていってしまう状態」をうつされるってことで
桃太郎電鉄で貧乏神うつされるみたいな(ただし元の方にも貧乏神が残る)イメージ
「ヨガレ(夜離れ)」とか言ったらしいけど、
同じような感じで「ケガレ(気離れ)」と称する、って考え方なのか
気=運気と考えると「ケガレがうつる」はわかりやすいのかな
「幸運が離れていってしまう状態」をうつされるってことで
桃太郎電鉄で貧乏神うつされるみたいな(ただし元の方にも貧乏神が残る)イメージ
憑き物筋もケガレと根っこが繋がるのかねえ
穢れ、という字ではないのだけれど、枯れるにせよ離れるにせよ、要は無いという状態を基準にイメージすると
何となく、汚れる…ヨゴれるとケガれるが一つの字でまとまってるのが、自分にはどことなく違和感を覚えたりするんだよな。
何となく、汚れる…ヨゴれるとケガれるが一つの字でまとまってるのが、自分にはどことなく違和感を覚えたりするんだよな。
無いって言うよりは状態なんじゃないかな
ケガレを祓うとかも状態を良くすることだと思うしね
でも汚いって意味のケガレも、殆ど同時に広まってると思うよ
古事記とかのケガレからはもう汚いって意味にも取れそうだし
あくまで源流を考えるとみたいな
ケガレを祓うとかも状態を良くすることだと思うしね
でも汚いって意味のケガレも、殆ど同時に広まってると思うよ
古事記とかのケガレからはもう汚いって意味にも取れそうだし
あくまで源流を考えるとみたいな
穢は禊で祓える物という認識が強くて、むしろ「気枯れ」の方がイメージし難い
と言うか、神道の「穢」と民俗学の「気枯れ」を同一視しない方が良いんじゃないだろうか
とも思う
と言うか、神道の「穢」と民俗学の「気枯れ」を同一視しない方が良いんじゃないだろうか
とも思う
古事記が書かれてる頃は有史もいいところだからな
民俗学でさかのぼれるのも有史がいいとこって気がするけど