仏教の救済論・浄土思想の成立
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仏様が封じられない理由(輪廻・解脱という出口があるポジティブシンキング)。インド原始仏教の生は苦がなぜ日本で変質したか(気候・農耕・カーストの差)。浄土思想が天台の浄土信仰から法然の浄土宗として独立した経緯。鎌倉動乱を背景とした他力本願の隆盛と自力救済の否定。
◆ 其の参(スレ3)>>133–175
日本で神様が殺されたり封じられたりはざらだけど仏様が封じられたりする話ってある?
文章しっかり読んでなかった・・・。
仏教だと、仏様は封じられないねぇ。
というより、涅槃に入ることは悪いことではなく、悟りへいたる道だしねぇ。
悪霊、悪人→釈迦と会って改心→修行を積んで仏に
というパターンが王道。
仏教だと、仏様は封じられないねぇ。
というより、涅槃に入ることは悪いことではなく、悟りへいたる道だしねぇ。
悪霊、悪人→釈迦と会って改心→修行を積んで仏に
というパターンが王道。
堕落話は?
それも聞いたことが無いな。
仏教の世界観はえらくポジティブシンキングだから、
例え堕落しても輪廻してやり直しができてしまう。
そして、最終的には解脱するか、そうでなくても何億年か後には直接仏が救済にやってくる。
仏教の世界観はえらくポジティブシンキングだから、
例え堕落しても輪廻してやり直しができてしまう。
そして、最終的には解脱するか、そうでなくても何億年か後には直接仏が救済にやってくる。
ポジティヴシンキングなのは、中国以降の仏教だな。
インドでは「生きること自体が苦」という、どちらかといえばネガティヴな思
想だった。
ぶっちゃけ、神に救いを求めなくても、気候がいいから何とか暮らしていける
中国や日本では、生=苦という思想が根付かなかった。
で、「阿弥陀様が浄土に連れてってくれる」なんていうわりと楽な思想になった。
まあ、仏教が広く伝播する過程で大きく変動してるから、仕方がないことなの
だけれども。
堕落話だと、天狗がそれに当たるのではないかな?
天狗は、山伏が堕落したものだったはず。特に、仏法に信心深かった人が堕落
すると、神通力が強いから大変らしい。
崇徳院が、死後最強怨霊として名をはせてしまったのも、生前は天皇という高
貴な地位にいて、かつ仏法への信心も篤かったから、大きな神通力を持ってい
ると考えられたかららしい。
ちなみに、手元に参考資料がないので、うろ覚え。間違いがあったら訂正して
くれ。
インドでは「生きること自体が苦」という、どちらかといえばネガティヴな思
想だった。
ぶっちゃけ、神に救いを求めなくても、気候がいいから何とか暮らしていける
中国や日本では、生=苦という思想が根付かなかった。
で、「阿弥陀様が浄土に連れてってくれる」なんていうわりと楽な思想になった。
まあ、仏教が広く伝播する過程で大きく変動してるから、仕方がないことなの
だけれども。
堕落話だと、天狗がそれに当たるのではないかな?
天狗は、山伏が堕落したものだったはず。特に、仏法に信心深かった人が堕落
すると、神通力が強いから大変らしい。
崇徳院が、死後最強怨霊として名をはせてしまったのも、生前は天皇という高
貴な地位にいて、かつ仏法への信心も篤かったから、大きな神通力を持ってい
ると考えられたかららしい。
ちなみに、手元に参考資料がないので、うろ覚え。間違いがあったら訂正して
くれ。
>>138
ルシファーなんか最強だよな、あとベイダーとか
善人と悪人の、世界に対する力は両者とも変わらない、
悪の力が大きいと善になったとき強い、その逆も。
ただ、善だと力を蓄えやすい、悪だと力が衰えやすい
……ということでよろしいか?
ルシファーなんか最強だよな、あとベイダーとか
善人と悪人の、世界に対する力は両者とも変わらない、
悪の力が大きいと善になったとき強い、その逆も。
ただ、善だと力を蓄えやすい、悪だと力が衰えやすい
……ということでよろしいか?
どっちかと言うと浄土系の隆盛は
苦しい世(飢饉・鎌倉への動乱)からの
脱却的なイメージがあるなぁ。
苦しい世(飢饉・鎌倉への動乱)からの
脱却的なイメージがあるなぁ。
インドで生きていくのが辛いってのはカーストがあったから
比較的流動的な日本の身分制度とは違い
生まれてから死ぬまでガチガチ
街の空気は自由とかそんな生易しいもんじゃない
カーストはバラモン教での階級が起源
下層の民衆の不満を無くさせるために
今は最下層の階級だけど、次に生まれ変わったら階級が変わるかもしれないから
今のうちにお前ら虐げられててね、ってことで輪廻転生の思想が生まれた
そこに反発して輪廻からの解脱を目指したのが釈迦であり原始仏教
だから結局は輪廻というよりカーストからの脱出が目的なんだから
その点では日本にマッチしてるとは言えない
しかも日本中国へ伝わったのは大乗仏教
大乗仏教自体が、修行により新たな仏陀となって民衆を救うっつーことで、非常に坊さん任せ
日本の民衆の信徒が軟派になるのは環境的にも教義的にも仕方ない
更に神仏習合なんてしちゃって
人知を超えたパワーで救われるみたいな思想も混ざっちゃう
後の葬式仏教
比較的流動的な日本の身分制度とは違い
生まれてから死ぬまでガチガチ
街の空気は自由とかそんな生易しいもんじゃない
カーストはバラモン教での階級が起源
下層の民衆の不満を無くさせるために
今は最下層の階級だけど、次に生まれ変わったら階級が変わるかもしれないから
今のうちにお前ら虐げられててね、ってことで輪廻転生の思想が生まれた
そこに反発して輪廻からの解脱を目指したのが釈迦であり原始仏教
だから結局は輪廻というよりカーストからの脱出が目的なんだから
その点では日本にマッチしてるとは言えない
しかも日本中国へ伝わったのは大乗仏教
大乗仏教自体が、修行により新たな仏陀となって民衆を救うっつーことで、非常に坊さん任せ
日本の民衆の信徒が軟派になるのは環境的にも教義的にも仕方ない
更に神仏習合なんてしちゃって
人知を超えたパワーで救われるみたいな思想も混ざっちゃう
後の葬式仏教
>>144
日本の春夏秋冬を「より酷く」したのが
仏教とバラモン教の発祥地である北インド
ちなみに台風も来る
日本で暮らせるなら基本的に向こうでも大丈夫
というか普通に凍死者が出る上
食べられる植物がそれほど無い日本が暮らしやすいはありえん
日本の春夏秋冬を「より酷く」したのが
仏教とバラモン教の発祥地である北インド
ちなみに台風も来る
日本で暮らせるなら基本的に向こうでも大丈夫
というか普通に凍死者が出る上
食べられる植物がそれほど無い日本が暮らしやすいはありえん
日本は神にすがるというか「皇族」という国を治める神の子孫が普通に居たわけで
インドとは下地がそもそも違いすぎるんじゃないか?
インドとは下地がそもそも違いすぎるんじゃないか?
>>145
>>146
ありがとう
>>145
カーストって今のインドに古くからある文化で、今でもいろいろと問題があるみたいだよね
www.geocities.jp/timeway/kougi-20.html
ここの不可触民の話は始めてみたときかなりビックリした
カーストからの脱出が目的ってのは流石に言いすぎじゃないかな
確かに俗世の身分は出家者の間では関係なかったり
こんなにも尊い教えを俗語で説いてはいけない、ヴェーダ語で説くべきだという弟子二人を叱って
その地方の民衆の日常語で説くように規定したり、非カースト的要素は強いと思うけど
それが目的っていうのは言いすぎじゃない?
でも輪廻からの脱出が目的ではないっていうのは俺もそうなんじゃないかなって思う
お釈迦様は答えの出ない形而上学的問題に対して、解答するのを拒否してる話があるしね
>>147
日本で個人が神にすがるようになったのは中世に仏教の影響で神が変質してかららしい
もっとも、仏教だって入ってきた当初は救済のものだとはみなされていなかったようだけど
なんでも、(神格化を取り除いた)聖徳太子がいち早く救済論に着目していたかもって説があるそうな
話がちょっとずれるけど、インドと下地が違うって例えば輪廻の思想があるよね
あれって、インドの生物がたくさん生まれてどんどん死んでいく、そんな自然環境から生まれたって聞いたことがある
よく知らないけど、日本とインドでは確かに下地がぜんぜん違う
>>146
ありがとう
>>145
カーストって今のインドに古くからある文化で、今でもいろいろと問題があるみたいだよね
www.geocities.jp/timeway/kougi-20.html
ここの不可触民の話は始めてみたときかなりビックリした
カーストからの脱出が目的ってのは流石に言いすぎじゃないかな
確かに俗世の身分は出家者の間では関係なかったり
こんなにも尊い教えを俗語で説いてはいけない、ヴェーダ語で説くべきだという弟子二人を叱って
その地方の民衆の日常語で説くように規定したり、非カースト的要素は強いと思うけど
それが目的っていうのは言いすぎじゃない?
でも輪廻からの脱出が目的ではないっていうのは俺もそうなんじゃないかなって思う
お釈迦様は答えの出ない形而上学的問題に対して、解答するのを拒否してる話があるしね
>>147
日本で個人が神にすがるようになったのは中世に仏教の影響で神が変質してかららしい
もっとも、仏教だって入ってきた当初は救済のものだとはみなされていなかったようだけど
なんでも、(神格化を取り除いた)聖徳太子がいち早く救済論に着目していたかもって説があるそうな
話がちょっとずれるけど、インドと下地が違うって例えば輪廻の思想があるよね
あれって、インドの生物がたくさん生まれてどんどん死んでいく、そんな自然環境から生まれたって聞いたことがある
よく知らないけど、日本とインドでは確かに下地がぜんぜん違う
元々、日本の神様って自然信仰が大元になってるせいか
個人が救いを求めても「そんなの知らねぇよ」ってイメージが・・・
個人が救いを求めても「そんなの知らねぇよ」ってイメージが・・・
確かになぁ。キリスト教が信じるものは救われるなら日本の神って触るなキケンに近いものが
核エネルギーみたいなもんかな日本の神様
うにゅ?
人の生活に近い処に居るんだけど、何を考えてるか分からず
お願いをするって感じだよなぁ・・・
アイヌの神様のように、先祖が神として子孫を見守っている。とか無いからこそ
社会として、そういう救済論が必要だったのかもねぇ・・・
お願いをするって感じだよなぁ・・・
アイヌの神様のように、先祖が神として子孫を見守っている。とか無いからこそ
社会として、そういう救済論が必要だったのかもねぇ・・・
まずは、sage忘れ申し訳ない。
仏教に関しては145氏その他の方々の方が、ずっとお詳しいようで、そちらに
お譲りしたいと思います。
丸投げともいいますが。
ただ、日本とインドの状況があまりにも異なったが故に、原始仏教は大きく
変質して日本へと流入したのであると考えてよいと思います。
その上で、日本が暮らしやすいかどうかという話になります。ここは、神道
の成立とも大きくかかわると私は考えております。
暮らしやすくない、と考える方もおりますが、狩猟採集文化である縄文時代
が1万年も続いたこと、そしてその縄文時代の栄養状況及び寿命が、農耕文化
のそれに匹敵していたということを鑑みるに、日本が暮らしにくいと考える
のは難しいと思います。日本は、農耕するだけの場所がなかったのではなく、
農耕する必要がなかったから自ら農耕文化を生みだすことがなかったのです。
それは、外より農耕文化が入った途端に爆発的に普及(地域差はあれ)したこ
とからもうかがえます。
則ち、自然に頼っていても自然は恵みを与えてくれるものであったわけです。
ただし、時々それは人間に牙をむく。故に、普段は恵みを与えてくれながら
時折祟る自然を「神」として崇め、祟られぬようにしたと考えられます。
一方、中東砂漠地帯では、自然=敵であり、あまりにも過酷な自然は度々人に
牙をむきます。故に、その自然から守ってくれる存在を「神」として想定し、
崇めたのでしょう。
超単純化した比較文化論であり、粗も多数あれば単純化しすぎだというご批判
もおありでしょうが、おおよそこの理解で違わないのではないでしょうか?
仏教に関しては145氏その他の方々の方が、ずっとお詳しいようで、そちらに
お譲りしたいと思います。
丸投げともいいますが。
ただ、日本とインドの状況があまりにも異なったが故に、原始仏教は大きく
変質して日本へと流入したのであると考えてよいと思います。
その上で、日本が暮らしやすいかどうかという話になります。ここは、神道
の成立とも大きくかかわると私は考えております。
暮らしやすくない、と考える方もおりますが、狩猟採集文化である縄文時代
が1万年も続いたこと、そしてその縄文時代の栄養状況及び寿命が、農耕文化
のそれに匹敵していたということを鑑みるに、日本が暮らしにくいと考える
のは難しいと思います。日本は、農耕するだけの場所がなかったのではなく、
農耕する必要がなかったから自ら農耕文化を生みだすことがなかったのです。
それは、外より農耕文化が入った途端に爆発的に普及(地域差はあれ)したこ
とからもうかがえます。
則ち、自然に頼っていても自然は恵みを与えてくれるものであったわけです。
ただし、時々それは人間に牙をむく。故に、普段は恵みを与えてくれながら
時折祟る自然を「神」として崇め、祟られぬようにしたと考えられます。
一方、中東砂漠地帯では、自然=敵であり、あまりにも過酷な自然は度々人に
牙をむきます。故に、その自然から守ってくれる存在を「神」として想定し、
崇めたのでしょう。
超単純化した比較文化論であり、粗も多数あれば単純化しすぎだというご批判
もおありでしょうが、おおよそこの理解で違わないのではないでしょうか?
あー、確かに暮らしやすいほうかもなぁ
砂漠は極端だと思うが、東南アジア程度には暮らしやすい
ただ中世になると事情が違ってくると思うんだ
農耕を生活の基幹にした人々は山林についての知識を失った
確認できる限り、平安時代初期に
「山林で食物を採集して生を繋ぐ」記事が特別なこととして出てくる
中世では山越えをする人間が非常に少なかったこと
山伏やNINJAが特別視されていたことからもこのことが伺える
また、鎌倉~室町には木材需要によって全国的に原生林の破壊が起こってる
特に室町末期は酷い
縄文時代のような生活は奥山を住居とする一部の妹紅を除いて不可能になっていたと思われる
現に飢饉による餓死者の記録はそこら中に残ってる
正直、仏教伝来以後と縄文時代では
文化醸造の下地が全く違ってたんじゃないかと
人口も増加してますし
伝承の上では役行者(飛鳥末~奈良)も特別視されてます
日本と同じくインドの歴史も内戦の歴史ですから
中世以後なら「一切皆苦」は割と容易に根付いたと思われます
砂漠は極端だと思うが、東南アジア程度には暮らしやすい
ただ中世になると事情が違ってくると思うんだ
農耕を生活の基幹にした人々は山林についての知識を失った
確認できる限り、平安時代初期に
「山林で食物を採集して生を繋ぐ」記事が特別なこととして出てくる
中世では山越えをする人間が非常に少なかったこと
山伏やNINJAが特別視されていたことからもこのことが伺える
また、鎌倉~室町には木材需要によって全国的に原生林の破壊が起こってる
特に室町末期は酷い
縄文時代のような生活は奥山を住居とする一部の妹紅を除いて不可能になっていたと思われる
現に飢饉による餓死者の記録はそこら中に残ってる
正直、仏教伝来以後と縄文時代では
文化醸造の下地が全く違ってたんじゃないかと
人口も増加してますし
伝承の上では役行者(飛鳥末~奈良)も特別視されてます
日本と同じくインドの歴史も内戦の歴史ですから
中世以後なら「一切皆苦」は割と容易に根付いたと思われます
おおよそ154には賛同したいろころだが、結局のところ地母神と天候神の関係だよな。
狩猟採集文化で賄える時代において、恵みを与える大地への尊敬と畏怖、
それらが生み出すアニミズム的な信仰が信仰の第一形態だと思う。
んで、大地から豊穣さが失われて農耕が発達したり遊牧が行われるようになると
アニミズム的な信仰は衰えて新たな信仰形態が生まれるってのが第二形態じゃないだろうか。
蛇殺しの天候神バールとかそんな感じに。
日本では農耕する必要が過去に一切無かったのかと言われるとなんか違うような気もしないでもない。
そうじゃなきゃ、いくら技術の伝達があってもここまで急速に農耕文化が発達していくのは違和感がある。
たぶん、農耕の文化自体は弥生以前に伝わっていたけど、狩猟採集で賄える分には必要性が薄かったのかと。
むしろ、農耕を大規模に行う事による生体バランスの変化というデメリットのほうが狩猟採集文化圏じゃ大きいと思うし。
いずれにせよ、寒冷化とか乾燥化とかなんらかの形で農耕を行う事が必要に迫られた場面があったんじゃないかと思う。
>>156
そういえば眉唾かもしれないが、スサノオとアマテラスが喧嘩ばっかりしてるのは
スサノオが林の神でアマテラスが農耕の神だったからとかどこかで聞いた。
農耕を発達させるために邪魔な森林とかをアマテラス姉様がばっさばっさなぎ倒すので反抗していたらしい。
狩猟採集文化で賄える時代において、恵みを与える大地への尊敬と畏怖、
それらが生み出すアニミズム的な信仰が信仰の第一形態だと思う。
んで、大地から豊穣さが失われて農耕が発達したり遊牧が行われるようになると
アニミズム的な信仰は衰えて新たな信仰形態が生まれるってのが第二形態じゃないだろうか。
蛇殺しの天候神バールとかそんな感じに。
日本では農耕する必要が過去に一切無かったのかと言われるとなんか違うような気もしないでもない。
そうじゃなきゃ、いくら技術の伝達があってもここまで急速に農耕文化が発達していくのは違和感がある。
たぶん、農耕の文化自体は弥生以前に伝わっていたけど、狩猟採集で賄える分には必要性が薄かったのかと。
むしろ、農耕を大規模に行う事による生体バランスの変化というデメリットのほうが狩猟採集文化圏じゃ大きいと思うし。
いずれにせよ、寒冷化とか乾燥化とかなんらかの形で農耕を行う事が必要に迫られた場面があったんじゃないかと思う。
>>156
そういえば眉唾かもしれないが、スサノオとアマテラスが喧嘩ばっかりしてるのは
スサノオが林の神でアマテラスが農耕の神だったからとかどこかで聞いた。
農耕を発達させるために邪魔な森林とかをアマテラス姉様がばっさばっさなぎ倒すので反抗していたらしい。
浄土思想ってのは敦厚や亀茲なんかのシルクロード沿いの西域で隆盛したんだと、
敦煌のあれとかバッコウ窟なんかまさにそれ(インドではあまり浄土系の名残はない)
西方の極楽浄土の影響も大きいだろうけど、砂漠地帯であると言う事も大きいかも。
それにクマラ・ジュウなんかは阿弥陀経のなかに自身の語を入れる位したみたいだが、
彼の苦痛の人生や砂漠の国で培った感性が阿弥陀経にマッチしてたのかなぁ?
彼は翻訳家だけどキリストにダブる面が有る気がする、いや全然違うが。
実際、砂漠系一神教と阿弥陀信仰(むしろ末法思想か)は驚くほど似てる。
(アミダの意味=平たく言うと無限ゾロアスターの影響かゴッドとは違うが近い気がする、
死後の世界が輪廻でなく、直線状の現世の時間の延長と言う点も共通する)
で当時自然が豊かだったらしいギリシャ宗教はすげえ日本の土着信仰に似てる気がする。
まぁ日本で浄土が隆盛したのは
・民衆:死への不安、現世への絶望
・貴族:現世の栄華をあの世でも
ってとこだろうな。
敦煌のあれとかバッコウ窟なんかまさにそれ(インドではあまり浄土系の名残はない)
西方の極楽浄土の影響も大きいだろうけど、砂漠地帯であると言う事も大きいかも。
それにクマラ・ジュウなんかは阿弥陀経のなかに自身の語を入れる位したみたいだが、
彼の苦痛の人生や砂漠の国で培った感性が阿弥陀経にマッチしてたのかなぁ?
彼は翻訳家だけどキリストにダブる面が有る気がする、いや全然違うが。
実際、砂漠系一神教と阿弥陀信仰(むしろ末法思想か)は驚くほど似てる。
(アミダの意味=平たく言うと無限ゾロアスターの影響かゴッドとは違うが近い気がする、
死後の世界が輪廻でなく、直線状の現世の時間の延長と言う点も共通する)
で当時自然が豊かだったらしいギリシャ宗教はすげえ日本の土着信仰に似てる気がする。
まぁ日本で浄土が隆盛したのは
・民衆:死への不安、現世への絶望
・貴族:現世の栄華をあの世でも
ってとこだろうな。
それと、中世仏教の話だけれど、
中世に浄土教が流行った理由としては、やはり動乱を背景として人々が成仏を願ったということがあるかもしれない。
けれど、それだけで捉えてしまうと、ただの中世暗黒史観になってしまう。
実際、鎌倉新仏教とか浄土教が本格的に浸透するのは室町時代中期以降であって、
少なくとも鎌倉時代は顕密仏教の方がはるかに力を持っていたというのが、最近の定説らしい。
中世と言う時代は、生産の向上から地方の力が増してきて、独立性を示すようになる時代であると言えると思う。
中央が衰退した、というよりは地方の向上を中央(律令政府)が抑えられなくなった、という表現の方がいいと思う。人口も増えているし。
そのような時代の中で、地方の人々・これまで下層だった人々にも余裕が生まれて、信仰するということができるようになった。
本当に苦しければ、寺を作ったり文書を書いたりというような、現代に残る形の信仰はできないから。
それが、この時期以降の寺社文書の増加を示すのだと思う。
その中で彼らは、より上の階級に生まれ変わることを目指した。
その手段として、浄土教とか顕密仏教とかがあったんだと思う。
実際、中世は暮らしにくい、と上の方がおっしゃっているが、それはあまり当てはまらないように思う。
確かに、自然破壊という側面からみればかなり進んでいたのかもしれない。
しかし、そもそも戦乱の発生原因が、生産増加による人口圧上昇が抑えきれなくなったことと捉えられる。
農業生産の増加によって各地で資源採掘する余裕が生まれ、石見や生野の銀・甲斐や佐渡の金が採掘されるようになった。
また、東シナ海交易が盛んに行われ、様々なものが輸出入された。
普段は農民として暮らす人々も、様々な内職で儲けもすれば、戦にでて金目のものを奪ってこれた。
そもそも、裕福でなければ貿易なぞできないし、中世末期に世界の3分の1の鉄砲を所持してるような超陸軍大国にはなれない。
中世とは非常に流動的な時代で、一様にば捉えにくいけれど、動乱の中で人間たちが自分の為に
ハキハキ動いていた時代だと、私は捉えている。
むしろ、このように人間が流動的に動けばこそ、価値観も流動的となり、仏教はその価値観の支えの一つとして機能したのではなかろうか?
中世に浄土教が流行った理由としては、やはり動乱を背景として人々が成仏を願ったということがあるかもしれない。
けれど、それだけで捉えてしまうと、ただの中世暗黒史観になってしまう。
実際、鎌倉新仏教とか浄土教が本格的に浸透するのは室町時代中期以降であって、
少なくとも鎌倉時代は顕密仏教の方がはるかに力を持っていたというのが、最近の定説らしい。
中世と言う時代は、生産の向上から地方の力が増してきて、独立性を示すようになる時代であると言えると思う。
中央が衰退した、というよりは地方の向上を中央(律令政府)が抑えられなくなった、という表現の方がいいと思う。人口も増えているし。
そのような時代の中で、地方の人々・これまで下層だった人々にも余裕が生まれて、信仰するということができるようになった。
本当に苦しければ、寺を作ったり文書を書いたりというような、現代に残る形の信仰はできないから。
それが、この時期以降の寺社文書の増加を示すのだと思う。
その中で彼らは、より上の階級に生まれ変わることを目指した。
その手段として、浄土教とか顕密仏教とかがあったんだと思う。
実際、中世は暮らしにくい、と上の方がおっしゃっているが、それはあまり当てはまらないように思う。
確かに、自然破壊という側面からみればかなり進んでいたのかもしれない。
しかし、そもそも戦乱の発生原因が、生産増加による人口圧上昇が抑えきれなくなったことと捉えられる。
農業生産の増加によって各地で資源採掘する余裕が生まれ、石見や生野の銀・甲斐や佐渡の金が採掘されるようになった。
また、東シナ海交易が盛んに行われ、様々なものが輸出入された。
普段は農民として暮らす人々も、様々な内職で儲けもすれば、戦にでて金目のものを奪ってこれた。
そもそも、裕福でなければ貿易なぞできないし、中世末期に世界の3分の1の鉄砲を所持してるような超陸軍大国にはなれない。
中世とは非常に流動的な時代で、一様にば捉えにくいけれど、動乱の中で人間たちが自分の為に
ハキハキ動いていた時代だと、私は捉えている。
むしろ、このように人間が流動的に動けばこそ、価値観も流動的となり、仏教はその価値観の支えの一つとして機能したのではなかろうか?
>>172
浄土思想って元は天台から出てるんですよ
天台には元々浄土信仰があったんです
それが次第に肥大化していきまして台密を食うぐらいになってしまい
法然のとき、ついに浄土宗として独立した
この時点で専修念仏を説くなど既に天台の一派とは呼べなくなってきてる
弟子の浄土真宗においては非僧非俗を説き、既存仏教から完全に外れた新興宗教の体を成してきた
上であえて「浄土教」と呼んだのはこのためです
(浄土宗はまだ既存仏教側に居るのですが、その後は鳴かず飛ばずでした)
中央の情勢不安を背景に爆発的に増加した浄土真宗
つまり本願寺の教えでは僧俗の区別が行われません
団体の指導者と信者の間に階級はありますが
既存社会の階級は決して持ち込まれない
ですから、上の階級を目指したというのは語弊があると思います
彼らはアウトカーストの集団でした
既存体制の側に居る密教団体と一緒にすることも出来ません
何度か出された念仏取締令もこのあたりに由来します
(密教としては教義的にも非常に問題があり
今で言う創○学会と同じような目で見られていたとも思われます
取締りを積極的に推奨したでしょう
何が問題って密教が積み重ねてきた知識体系を放棄したのです
物理学にも力学にも従わずにロケットが飛ばせるものでしょうか)
中世は非常に流動的な時代だった
また、独立志向の強い時代だった
これには自分も同意します(現に各地で色とりどりの文化が花開いてますし)
しかし、暮らしやすかったかと言えばこれには同意できかねます
浄土教は上記の通り既存体制から外れ
室町中期以降はこれを破壊せんとする非常に革命的な集団です
その熱狂ぶりたるや現在の新興宗教を凌ぐほどです
端的に言えば、非常に「気持ち悪い」集団なわけです
既存体制に満足しているなら密教や禅宗や日蓮宗でもいいですし
現在と同じように無宗教を通すことも出来るでしょう
しかし、浄土教は既存団体を差し置いて信者を爆発的に増やしました
多くの民衆がわざわざ「気持ち悪い」集団へ入信することになった要因があるはずです
これを情勢不安によるストレスに求めるのは乱暴でしょうか
戦乱の発生が人口圧上昇によるものなら、それを解決するために多くの死者も出ているはずです
鎌倉幕府衰退以降の中世は
金銭的には裕福だったと思います
しかし非常に強いストレスのかかった精神的には苦しい時代だったかと思います
浄土思想って元は天台から出てるんですよ
天台には元々浄土信仰があったんです
それが次第に肥大化していきまして台密を食うぐらいになってしまい
法然のとき、ついに浄土宗として独立した
この時点で専修念仏を説くなど既に天台の一派とは呼べなくなってきてる
弟子の浄土真宗においては非僧非俗を説き、既存仏教から完全に外れた新興宗教の体を成してきた
上であえて「浄土教」と呼んだのはこのためです
(浄土宗はまだ既存仏教側に居るのですが、その後は鳴かず飛ばずでした)
中央の情勢不安を背景に爆発的に増加した浄土真宗
つまり本願寺の教えでは僧俗の区別が行われません
団体の指導者と信者の間に階級はありますが
既存社会の階級は決して持ち込まれない
ですから、上の階級を目指したというのは語弊があると思います
彼らはアウトカーストの集団でした
既存体制の側に居る密教団体と一緒にすることも出来ません
何度か出された念仏取締令もこのあたりに由来します
(密教としては教義的にも非常に問題があり
今で言う創○学会と同じような目で見られていたとも思われます
取締りを積極的に推奨したでしょう
何が問題って密教が積み重ねてきた知識体系を放棄したのです
物理学にも力学にも従わずにロケットが飛ばせるものでしょうか)
中世は非常に流動的な時代だった
また、独立志向の強い時代だった
これには自分も同意します(現に各地で色とりどりの文化が花開いてますし)
しかし、暮らしやすかったかと言えばこれには同意できかねます
浄土教は上記の通り既存体制から外れ
室町中期以降はこれを破壊せんとする非常に革命的な集団です
その熱狂ぶりたるや現在の新興宗教を凌ぐほどです
端的に言えば、非常に「気持ち悪い」集団なわけです
既存体制に満足しているなら密教や禅宗や日蓮宗でもいいですし
現在と同じように無宗教を通すことも出来るでしょう
しかし、浄土教は既存団体を差し置いて信者を爆発的に増やしました
多くの民衆がわざわざ「気持ち悪い」集団へ入信することになった要因があるはずです
これを情勢不安によるストレスに求めるのは乱暴でしょうか
戦乱の発生が人口圧上昇によるものなら、それを解決するために多くの死者も出ているはずです
鎌倉幕府衰退以降の中世は
金銭的には裕福だったと思います
しかし非常に強いストレスのかかった精神的には苦しい時代だったかと思います
連レスすいません
独立志向が強かったといっても
各勢力は天皇を中心とする既存体制の上に存在するものであり
浄土教・キリシタンは特別なものであったことを一応追記しときます
中世って前期と後期に分けるべきなんでしょうねぇ
独立志向が強かったといっても
各勢力は天皇を中心とする既存体制の上に存在するものであり
浄土教・キリシタンは特別なものであったことを一応追記しときます
中世って前期と後期に分けるべきなんでしょうねぇ
中世なら西行が生きていた頃のはず…と思ったけど
西行出家が1140年、浄土宗成立が1175年だから関係なかった。
妖夢のスペカは六道輪廻観だから白玉楼と浄土宗・浄土真宗とは関係ないのかね。
西行出家が1140年、浄土宗成立が1175年だから関係なかった。
妖夢のスペカは六道輪廻観だから白玉楼と浄土宗・浄土真宗とは関係ないのかね。
◆ 其の六(スレ6)>>261–277
仏教といえば命蓮寺は何系の寺になるんかね?
うちも最近真言宗ということ知ったけど、同じ宗でも複数派閥があってややこしいな
今まであまり興味なかったけど、どこの宗派が多いのかな
ていうか幻想郷の住人の信仰状況はどうなっているんだろ
今まであまり興味なかったけど、どこの宗派が多いのかな
ていうか幻想郷の住人の信仰状況はどうなっているんだろ
>>264
どこまで信頼できるデータか判らんのであくまでも参考程度に
ttp://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r3-1.htm
↑によると、仏教系諸宗派で最も信者数が多いのは浄土真宗本願寺派(694万人)
全体で一番信者数が多いのは、大半の神社が所属してる神社本庁(9490万人)
但しこの表にもある通り宗教法人側の自己申告に基づく統計で、数はかなり粉飾されてるのが確実
単純に申告された信者数を合計すると日本の総人口を軽く超えちゃうし眉唾に見た方がいい
あと日本の場合「○○寺の檀家で××神社の氏子」といった具合に複数の宗派を兼ねて信仰してるケースは普通にあるから
必然的に信者数には重複も非常に多いと思われる
どこまで信頼できるデータか判らんのであくまでも参考程度に
ttp://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r3-1.htm
↑によると、仏教系諸宗派で最も信者数が多いのは浄土真宗本願寺派(694万人)
全体で一番信者数が多いのは、大半の神社が所属してる神社本庁(9490万人)
但しこの表にもある通り宗教法人側の自己申告に基づく統計で、数はかなり粉飾されてるのが確実
単純に申告された信者数を合計すると日本の総人口を軽く超えちゃうし眉唾に見た方がいい
あと日本の場合「○○寺の檀家で××神社の氏子」といった具合に複数の宗派を兼ねて信仰してるケースは普通にあるから
必然的に信者数には重複も非常に多いと思われる
聖は捨虫の法を収得している辺り仏教の理念からは外れてそうだけど
人・妖怪を分け隔て無く救おうとしてることから地蔵菩薩のような感じになるのか?
人・妖怪を分け隔て無く救おうとしてることから地蔵菩薩のような感じになるのか?
西行法師も真言宗だね
>>265
知人に、檀家で氏子でキリスト教信者(なんかちゃんと洗礼だか受けたらしい)
っていう、パーフェクト超人がおるわ。
檀家と氏子の件については「信仰ではなく家の所属」という事で不問になったとか。
キリスト教も日本に根づくべくテキトー宗教になりつつあるんだろうか。
知人に、檀家で氏子でキリスト教信者(なんかちゃんと洗礼だか受けたらしい)
っていう、パーフェクト超人がおるわ。
檀家と氏子の件については「信仰ではなく家の所属」という事で不問になったとか。
キリスト教も日本に根づくべくテキトー宗教になりつつあるんだろうか。
>>265
神道と仏教の信者を合わせると、日本の人口が倍になるなんて笑い話がありましたね
統計見てみると、実際なってるようですが
粉飾と言うのは言い過ぎかとも思いますが、法的に「信者」と「教師」の定義が特に無く
おっしゃる通り各教団の自己申告に任せている現状では正確な数字が出ることはないでしょうねぇ
特に神社本庁の信者数は「氏子」「崇敬者」「神宮大麻頒布数」で計ってたりするので
人によっては三重にカウントされている人もいるでしょうし
>>268
おっしゃることと直接の関係はないかも知れませんが
日本は世界で唯一、非キリスト教徒同士の(カトリック教会での)結婚を
バチカンから認められている国だそうです
理由は、あまりにも信者数が少ないため布教活動の一環として、だそうで
神道と仏教の信者を合わせると、日本の人口が倍になるなんて笑い話がありましたね
統計見てみると、実際なってるようですが
粉飾と言うのは言い過ぎかとも思いますが、法的に「信者」と「教師」の定義が特に無く
おっしゃる通り各教団の自己申告に任せている現状では正確な数字が出ることはないでしょうねぇ
特に神社本庁の信者数は「氏子」「崇敬者」「神宮大麻頒布数」で計ってたりするので
人によっては三重にカウントされている人もいるでしょうし
>>268
おっしゃることと直接の関係はないかも知れませんが
日本は世界で唯一、非キリスト教徒同士の(カトリック教会での)結婚を
バチカンから認められている国だそうです
理由は、あまりにも信者数が少ないため布教活動の一環として、だそうで
白蓮さんは若干密教系の真言宗を囓ってるっぽいよなぁ
しかもどうやら全国を行脚してたっぽいし 島根とか
しかもどうやら全国を行脚してたっぽいし 島根とか
インド系はそこまで影響されてなさそうだよな
バチカンのお墨付きだったのか……
ウチも真言宗の檀家で浅間神社の氏子。
ウチの地方(千葉北西部)は遠い昔に茨城の豪族が侵略した歴史があるんで、浅間神社の中の人も木花咲耶姫とアンバ様の某八坂家状態。
更に曾曾祖父が人から貰った護符で厄を逃れたって話で、何故か庭に笠間稲荷のお洞まである。
だから正月は近所の浅間神社・成田山・大杉神社・笠間稲荷と最低でも回る。
更に更に俺個人は将門公も敬愛してるんで、神田明神まで網羅。
ある意味、典型的日本人宗教観の例だなw
ウチの地方(千葉北西部)は遠い昔に茨城の豪族が侵略した歴史があるんで、浅間神社の中の人も木花咲耶姫とアンバ様の某八坂家状態。
更に曾曾祖父が人から貰った護符で厄を逃れたって話で、何故か庭に笠間稲荷のお洞まである。
だから正月は近所の浅間神社・成田山・大杉神社・笠間稲荷と最低でも回る。
更に更に俺個人は将門公も敬愛してるんで、神田明神まで網羅。
ある意味、典型的日本人宗教観の例だなw
俺の家なんか知る人ぞ知る隠し念仏の信者だぞ……
◆ 其の六(スレ6)>>286–310
「私は気付いたのです。神も仏も妖怪に過ぎないと
妖怪として排除するか、神様として崇めるかそれは、人間が決める事なのです。」
聖が何を以て何を救うのかよくわからない
死の恐怖から自分を救うのが目的で、あとは蛇足か詭弁に思えちゃう
妖怪として排除するか、神様として崇めるかそれは、人間が決める事なのです。」
聖が何を以て何を救うのかよくわからない
死の恐怖から自分を救うのが目的で、あとは蛇足か詭弁に思えちゃう
神も仏も妖怪、妖怪も人間も平等に救う。それは仏教的な精神による救いである。単純じゃないか。
仏教自体の発端が「死の恐怖から自らを救う」ところから始まってるから。
仏教自体の発端が「死の恐怖から自らを救う」ところから始まってるから。
でも聖の死の克服は肉体的にだからさ
じゃあ寺では若返りの法を教えているのかも知れないけれど、
するとそれは人間に対しての救いなだけで、妖怪を差別しないのは本懐じゃない様に思えて。
セットで語ってる平等云々は、妖怪に同情した聖の感傷であって、妖怪が存在していればいいだけの死の克服とは直結してないなあって。
じゃあ寺では若返りの法を教えているのかも知れないけれど、
するとそれは人間に対しての救いなだけで、妖怪を差別しないのは本懐じゃない様に思えて。
セットで語ってる平等云々は、妖怪に同情した聖の感傷であって、妖怪が存在していればいいだけの死の克服とは直結してないなあって。
仏教は究極の平等思想だからな
キリスト教では人間は神が自分に似せて作った特別な存在
牛や羊のような家畜は人間に食われるため神が与えた物とまで考えられるが
上座部仏教の瞑想の話とか聞くと、仏教での悟りというのは
人間的な欲求や執着を捨ててゆく過程で
究極的には「木や虫と同じ心境になりましょう」という感じだ
大乗仏教の解釈でもインド神話では宿敵同士だったナーガとガルーダが
いずれも天部として同格になってたり、仏教では万物斉同、生類皆平等
という感じの考え方が節々に見られる
確かに、白蓮が死を怖れて不老不死になろうとしたのは
仏教徒としては自然に反する行為となるが、その結果に行き着いた境地は
案外と仏教徒の考え方としておかしくないような気もする
キリスト教では人間は神が自分に似せて作った特別な存在
牛や羊のような家畜は人間に食われるため神が与えた物とまで考えられるが
上座部仏教の瞑想の話とか聞くと、仏教での悟りというのは
人間的な欲求や執着を捨ててゆく過程で
究極的には「木や虫と同じ心境になりましょう」という感じだ
大乗仏教の解釈でもインド神話では宿敵同士だったナーガとガルーダが
いずれも天部として同格になってたり、仏教では万物斉同、生類皆平等
という感じの考え方が節々に見られる
確かに、白蓮が死を怖れて不老不死になろうとしたのは
仏教徒としては自然に反する行為となるが、その結果に行き着いた境地は
案外と仏教徒の考え方としておかしくないような気もする
釈尊からして、生病老死の四魔への恐れや苦悩から、道を歩み出した訳だし
キリストやマホメットなども、結構、俗っぽくてリベラルだったりする
キリストはローマ式の大宴会(横臥しながら頬張り、ついに吐くまでご馳走を食べ続ける)にも参加したそうだし、
マホメットは飲酒の徳を認めた上で、当時の荒々しさから禁酒を唱えている
人の弱さや苦しみが分からない宗教家ってのは、むしろ怖いのかも
キリストやマホメットなども、結構、俗っぽくてリベラルだったりする
キリストはローマ式の大宴会(横臥しながら頬張り、ついに吐くまでご馳走を食べ続ける)にも参加したそうだし、
マホメットは飲酒の徳を認めた上で、当時の荒々しさから禁酒を唱えている
人の弱さや苦しみが分からない宗教家ってのは、むしろ怖いのかも
>>293
悪いことしたら来世で動物になる(畜生道)ってのは明らかに動物を下に見てんじゃないの?
そういう観念は元々仏教のものじゃなくてバラモン教とかから吸収したものなのかな。
まあそれにしたって吸収したんだしな。
悪いことしたら来世で動物になる(畜生道)ってのは明らかに動物を下に見てんじゃないの?
そういう観念は元々仏教のものじゃなくてバラモン教とかから吸収したものなのかな。
まあそれにしたって吸収したんだしな。
まぁ元々の仏教に地獄も糞もない。
でも元々の仏教以外が仏教でないわけでもないし。
「仏教は~」とか「キリスト教は~」って主語が大きすぎると思うのよ。
「仏教は~」とか「キリスト教は~」って主語が大きすぎると思うのよ。
>>295
いやいやそれを言うと
人間、畜生(動物)、地獄、天、修羅、餓鬼の六道どれも最善ではない
その輪廻転生から逃れるのが解脱、という考え方だから
つまり人間や畜生どころか地獄や天も同じように修行過程でしかないと説く
これを究極の平等思想と呼ばずして何というかw
いやいやそれを言うと
人間、畜生(動物)、地獄、天、修羅、餓鬼の六道どれも最善ではない
その輪廻転生から逃れるのが解脱、という考え方だから
つまり人間や畜生どころか地獄や天も同じように修行過程でしかないと説く
これを究極の平等思想と呼ばずして何というかw
前に別のスレでも聞いた事があるけど、船幽霊のムラサを成仏させずに連れ回すのって
仏教的にはオーケーなの?
妖怪として既に存在が定着しているという説があったけど
プリズムリバーとかは四季映姫に成仏を勧められてたからさ
仏教的にはオーケーなの?
妖怪として既に存在が定着しているという説があったけど
プリズムリバーとかは四季映姫に成仏を勧められてたからさ
>>300
船幽霊て妖怪だしなぁ・・・
まぁ悪霊といえば悪霊だけど。
そもそも、寺仏教は死後の扱いがどうなってるのかよくわからない。
輪廻転生するなら、墓参りしても先祖に会えないよね。
墓を保有管理してる寺はそこら辺どういうつもりなんだろ。
船幽霊て妖怪だしなぁ・・・
まぁ悪霊といえば悪霊だけど。
そもそも、寺仏教は死後の扱いがどうなってるのかよくわからない。
輪廻転生するなら、墓参りしても先祖に会えないよね。
墓を保有管理してる寺はそこら辺どういうつもりなんだろ。
そこはどうやら
本来のインドでの仏教には先祖供養という要素はなかったが
大乗仏教が東方に伝来する過程で中華文化圏や日本の習慣と習合した
ということになるらしい
まあ、習合や他地域への伝来で宗教の習慣が変わる話は珍しくない
それを言えば元々クリスマスはキリスト教の祭じゃなくて
古代ヨーロッパでの冬至の祭だったものを
ローマ帝国時代にキリストの生誕祭に仕立て直したものだというし
(それ以前、キリストの誕生日は不明とされていたらしい)
本来のインドでの仏教には先祖供養という要素はなかったが
大乗仏教が東方に伝来する過程で中華文化圏や日本の習慣と習合した
ということになるらしい
まあ、習合や他地域への伝来で宗教の習慣が変わる話は珍しくない
それを言えば元々クリスマスはキリスト教の祭じゃなくて
古代ヨーロッパでの冬至の祭だったものを
ローマ帝国時代にキリストの生誕祭に仕立て直したものだというし
(それ以前、キリストの誕生日は不明とされていたらしい)
そもそも仏教では幽霊って存在しないんじゃなかったっけ?
死ねば全て輪廻の輪に入るから残滓が残ることはないって感じで
死ねば全て輪廻の輪に入るから残滓が残ることはないって感じで
「成仏」って言葉はそもそも、「幽霊が昇天する」って意味じゃなかったしな
キリスト教も仏教も、土着の宗教を吸収する過程で
便利な「建前」を編み出しまくってるからなぁ。
三位一体だの六道輪廻だの、もう何がしたいのやら。
まぁ幻想郷のハチャメチャっぷりも
こういうのを考えればまぁありだよね。
便利な「建前」を編み出しまくってるからなぁ。
三位一体だの六道輪廻だの、もう何がしたいのやら。
まぁ幻想郷のハチャメチャっぷりも
こういうのを考えればまぁありだよね。
まぁ所詮思想だしそりゃウン千年も経てばもう別物だろうな
19世紀まで実在が疑われることのなかったエーテルは幻想入りしている可能性があるよね
エーテルさえあれば魔法が使えるということになるのか
エーテルさえあれば魔法が使えるということになるのか
それは言エーテルな
このスレでこれは珍しい気がするな
◆ 其の四(スレ4)>>903–907
>>885
最初の段落はやっぱりよくわからない、ごめん。
イヌの話は、ちょっとたとえが悪いと思う。
犬の様なあからさまに目の前にあるようなものは、犬という言葉がなくなってもなくなりはしないんじゃないかと。
動物や生き物という言葉まで消えても、他に言葉が残っているのなら、わからないものとして区別されて、認識されそうな気がする。
輪廻からの解脱が仏教全体の目標かは難しいところがあると思う。
一応目標と考えても、上座部と大乗では扱いが全く違う。
たとえば大乗は「世界は空だ。空な世界を苦と考えそこから逃げようとするのは迷いだ」とか言ったりする。
また、上座部的には悟った人間は二度と輪廻的世界に戻ることはない。
上座部のお坊さんでも大乗的なことを考えて、解脱しないで衆生を救うぞ、と菩薩の誓いをする人はいるらしい。
そういう人は、ある程度修行が進んでいるけど悟ってはいないときに誓うそうだ。
それに対して大乗では過去生に仏だった菩薩がいたりする。
大乗だと輪廻からの解脱という部分は結構グダグダになっていると思う。
たぶん解脱というのは、上座部だと目的地、大乗だと目的の方角ぐらいの感覚なんじゃないかな。
そして、白蓮は日本の人で、日本に入ってきたのは主に大乗仏教。
「慈悲」でないのが良いとか悪いというものでないというのは、まったくもってその通りだと思う。
>>887
個人的には、ステージタイトルはそのキャラクターを正確にあらわしているものでない気がするけど、
そう考えることもできるよね。
>>888
お釈迦様や上座部の慈悲については、悟りや解脱からすると二次的要素じゃないかとおもう。
悟って主観と客観を乗り越えた視点を持つと、必然的に慈悲の心がでてくるんじゃないかな。
方便だというあなたの解釈と、一時的要素でないというところは同じだね。
竜樹は「大乗の菩薩はたくさんの世界の生きるもの全てを背負う覚悟が必要」というようなことを言ってたそうだが、
「悟ったけど、微妙な教えだから普通の人には理解できないだろう」と布教をやめかけたお釈迦様だと、
慈悲や利他行の扱いは違うものになりそうだ。
ただ大乗だととても重要なものになると思うよ。上述した竜樹の言葉とか。
ただ単に導くための行為ではなく、もっと重要なものとして扱われていると思う。
禅についてはこれなんかどうだろう。
sm6745147 【仏教】臨済録(行録)読み下し解説SP【ニー仏】
簡単なのは、比較対象が難しすぎるからだったりして。
『無門関』の話も、俺はきちんと読んでないんで適当なことしか言えないけど、
動画の話と同じ文脈じゃないかと思う。つまり計らいごとの否定。
そして計らいごとは否定するけど、認識の変化は必要だと思う。
今の自分が仏であることを実感しなければならないようだから。
『無門関』にも無分節に関する話もあるみたい、第四十則や第四十三則とか。
だからやっぱり、無分節の視点が必要なんじゃないかな。
ただ、昔どこかで
「中国仏教は悟りの視点から悟りと煩悩は同じとしたけど
日本仏教(本覚思想だったかも)は迷いの視点からでも同じにしてしまった」
という話を聞いたことがある、ような気がする。
本覚思想は、凡夫は凡夫のままでいい、みたいなところがあるみたいだし、
そちらで考えていくこともできるかも。
命名と時系列はやっぱりよくわからない、ごめん。
俺の考えてることを例えると、「リストラ」という概念がある。
この言葉が登場する前は「合理化」という概念でくくられていて、
主に生産現場の労働者の人員配置の変更を指していた場合が多かった。
ホワイトカラーの人員配置の変更という事態が生じてきて、
より広い範囲の現象としてとらえるために「リストラ」という概念がでてきた。
「リストラ」という概念は、「リストラ」という言葉ができる前の時代にも適用できる。
でも、それは前の時代にリストラという言葉や概念があったわけでも、
それによってくくられているものを一つの現象としてみる視点があったわけでもなかった、ということなんだ。
リストラを幻想、合理化は妖怪とか読み替えてもらえば、だいたい俺が>>881で思い浮かんだことになっていると思う。
最初の段落はやっぱりよくわからない、ごめん。
イヌの話は、ちょっとたとえが悪いと思う。
犬の様なあからさまに目の前にあるようなものは、犬という言葉がなくなってもなくなりはしないんじゃないかと。
動物や生き物という言葉まで消えても、他に言葉が残っているのなら、わからないものとして区別されて、認識されそうな気がする。
輪廻からの解脱が仏教全体の目標かは難しいところがあると思う。
一応目標と考えても、上座部と大乗では扱いが全く違う。
たとえば大乗は「世界は空だ。空な世界を苦と考えそこから逃げようとするのは迷いだ」とか言ったりする。
また、上座部的には悟った人間は二度と輪廻的世界に戻ることはない。
上座部のお坊さんでも大乗的なことを考えて、解脱しないで衆生を救うぞ、と菩薩の誓いをする人はいるらしい。
そういう人は、ある程度修行が進んでいるけど悟ってはいないときに誓うそうだ。
それに対して大乗では過去生に仏だった菩薩がいたりする。
大乗だと輪廻からの解脱という部分は結構グダグダになっていると思う。
たぶん解脱というのは、上座部だと目的地、大乗だと目的の方角ぐらいの感覚なんじゃないかな。
そして、白蓮は日本の人で、日本に入ってきたのは主に大乗仏教。
「慈悲」でないのが良いとか悪いというものでないというのは、まったくもってその通りだと思う。
>>887
個人的には、ステージタイトルはそのキャラクターを正確にあらわしているものでない気がするけど、
そう考えることもできるよね。
>>888
お釈迦様や上座部の慈悲については、悟りや解脱からすると二次的要素じゃないかとおもう。
悟って主観と客観を乗り越えた視点を持つと、必然的に慈悲の心がでてくるんじゃないかな。
方便だというあなたの解釈と、一時的要素でないというところは同じだね。
竜樹は「大乗の菩薩はたくさんの世界の生きるもの全てを背負う覚悟が必要」というようなことを言ってたそうだが、
「悟ったけど、微妙な教えだから普通の人には理解できないだろう」と布教をやめかけたお釈迦様だと、
慈悲や利他行の扱いは違うものになりそうだ。
ただ大乗だととても重要なものになると思うよ。上述した竜樹の言葉とか。
ただ単に導くための行為ではなく、もっと重要なものとして扱われていると思う。
禅についてはこれなんかどうだろう。
sm6745147 【仏教】臨済録(行録)読み下し解説SP【ニー仏】
簡単なのは、比較対象が難しすぎるからだったりして。
『無門関』の話も、俺はきちんと読んでないんで適当なことしか言えないけど、
動画の話と同じ文脈じゃないかと思う。つまり計らいごとの否定。
そして計らいごとは否定するけど、認識の変化は必要だと思う。
今の自分が仏であることを実感しなければならないようだから。
『無門関』にも無分節に関する話もあるみたい、第四十則や第四十三則とか。
だからやっぱり、無分節の視点が必要なんじゃないかな。
ただ、昔どこかで
「中国仏教は悟りの視点から悟りと煩悩は同じとしたけど
日本仏教(本覚思想だったかも)は迷いの視点からでも同じにしてしまった」
という話を聞いたことがある、ような気がする。
本覚思想は、凡夫は凡夫のままでいい、みたいなところがあるみたいだし、
そちらで考えていくこともできるかも。
命名と時系列はやっぱりよくわからない、ごめん。
俺の考えてることを例えると、「リストラ」という概念がある。
この言葉が登場する前は「合理化」という概念でくくられていて、
主に生産現場の労働者の人員配置の変更を指していた場合が多かった。
ホワイトカラーの人員配置の変更という事態が生じてきて、
より広い範囲の現象としてとらえるために「リストラ」という概念がでてきた。
「リストラ」という概念は、「リストラ」という言葉ができる前の時代にも適用できる。
でも、それは前の時代にリストラという言葉や概念があったわけでも、
それによってくくられているものを一つの現象としてみる視点があったわけでもなかった、ということなんだ。
リストラを幻想、合理化は妖怪とか読み替えてもらえば、だいたい俺が>>881で思い浮かんだことになっていると思う。
>>890
俺も仏教や哲学には明るくないし、神話的というのがよくわからないから適当なことしか言えないけど、
たぶんそんな感じだと思う。
一応もう一度説明をがんばってみる。
「食べた物はどの時点で自分になるのか。排泄物はいつ自分でなくなるのか」
子供のころこんなことを考えたことない?自分の体というけれど、どこまで自分かは結構あいまい。
小さな視点で考えると、人間の体は分子が比較的凝集している部分で、その分子もどんどん入れ替わってる。
大きな視点で見ると、今別れている見える物を一つとして考える地球という分け方がある。
物理的な境界というのは結構恣意的なものじゃないかなと思った。
そして、どうやら昔から言葉によって物を分けて認識しているというような考え方があるらしい。
そういう考え方で境界能力についての阿求の説明を読むこともできるのでは、と。
ただ、もう少し問題を掘り下げると言葉以前があるかもしれない。
例えば、コップを見たとき
「コップだ」と大多数の人は直感的にわかる。
ある種の人格障害者は「形は~材質は~何に使うもので~だからコップだ」という認識の仕方をするそうだけど。
物と物の境界はは意識以前から来ていて、そこでは言葉ではないのかも。
あと白蓮が個人の信念に寄って立っていても、それを非仏教と考えるとすぐには言えないんじゃないかと。
仏教では、それ以前の仏教とはまったく違う教えを説いている人も現実に存在したし、
>>891さんが指摘している通り、本人も仏教だと考えていそう。
そもそも、上の動画の最後の方でも言われているけど、これが仏教だ、と言えるような教義の定義は仏教では難しいんだ。
中には、「仏教とは無我説であり、縁起説だと考える」と言っている学者もいるけど、その人はこうも言っている。
「釈尊その人の説法にさえ、非仏教的要素が残存し、混在していたことも、充分考えられる」
また、特に初期の仏教は、真理を示すというより苦からの離脱の方法という面が強かったということもあるみたい。
特定の信念の立場に立つのでない限り、
本人が仏教と言っているなら仏教と認めざるを得ないところが仏教定義にはある。
ここらへんは、映姫の説教は仏教かを考える上でも関係してくる。
あと東アジアの仏教では輪廻転生のシステムというものじたいをあまり受け入れてないと思う。
上の動画の様な、業を落としたりせずともすぐに悟れるというのは、主に中国仏教以降の思想だから。
業を現実的に感じることができるチベットなんかでは、こういうものは受け入れられなかったみたい。
そしてインド仏教の輪廻転生は業を前提としたものだから。
俺も仏教や哲学には明るくないし、神話的というのがよくわからないから適当なことしか言えないけど、
たぶんそんな感じだと思う。
一応もう一度説明をがんばってみる。
「食べた物はどの時点で自分になるのか。排泄物はいつ自分でなくなるのか」
子供のころこんなことを考えたことない?自分の体というけれど、どこまで自分かは結構あいまい。
小さな視点で考えると、人間の体は分子が比較的凝集している部分で、その分子もどんどん入れ替わってる。
大きな視点で見ると、今別れている見える物を一つとして考える地球という分け方がある。
物理的な境界というのは結構恣意的なものじゃないかなと思った。
そして、どうやら昔から言葉によって物を分けて認識しているというような考え方があるらしい。
そういう考え方で境界能力についての阿求の説明を読むこともできるのでは、と。
ただ、もう少し問題を掘り下げると言葉以前があるかもしれない。
例えば、コップを見たとき
「コップだ」と大多数の人は直感的にわかる。
ある種の人格障害者は「形は~材質は~何に使うもので~だからコップだ」という認識の仕方をするそうだけど。
物と物の境界はは意識以前から来ていて、そこでは言葉ではないのかも。
あと白蓮が個人の信念に寄って立っていても、それを非仏教と考えるとすぐには言えないんじゃないかと。
仏教では、それ以前の仏教とはまったく違う教えを説いている人も現実に存在したし、
>>891さんが指摘している通り、本人も仏教だと考えていそう。
そもそも、上の動画の最後の方でも言われているけど、これが仏教だ、と言えるような教義の定義は仏教では難しいんだ。
中には、「仏教とは無我説であり、縁起説だと考える」と言っている学者もいるけど、その人はこうも言っている。
「釈尊その人の説法にさえ、非仏教的要素が残存し、混在していたことも、充分考えられる」
また、特に初期の仏教は、真理を示すというより苦からの離脱の方法という面が強かったということもあるみたい。
特定の信念の立場に立つのでない限り、
本人が仏教と言っているなら仏教と認めざるを得ないところが仏教定義にはある。
ここらへんは、映姫の説教は仏教かを考える上でも関係してくる。
あと東アジアの仏教では輪廻転生のシステムというものじたいをあまり受け入れてないと思う。
上の動画の様な、業を落としたりせずともすぐに悟れるというのは、主に中国仏教以降の思想だから。
業を現実的に感じることができるチベットなんかでは、こういうものは受け入れられなかったみたい。
そしてインド仏教の輪廻転生は業を前提としたものだから。
>>888
二次的要素というのをどのような意味で使っているかはよくわかっていないかもしれないけれど、
慈悲と悟りや解脱を一次的であるとか二次的であるとかに分けて考える必要はないと思う。
理論とその体現に齟齬があるべきではないから。
それに竜樹と釈迦の言っていることにさほど違いがあるようにも見えない。
まず仏教というものが認知されているかどうかも異なる。それなりの下地があった竜樹は素直にそう言えたのかもしれないけど、
(多分)はじめてこの理論を悟った釈迦からすれば「たくさんの世界の生きるもの全てを背負う覚悟」
をいきなり他の大勢の人に要求していいものだろうか、と疑問を持っても仕方がない。
それに導くことよりも重要なもの、というのは例えばどういうことなのだろう。
動画は拝見させてもらいました。大体においては同意するけど、
>そして計らいごとは否定するけど、認識の変化は必要だと思う。
というのは順序が異なるのではないだろうか。つまり認識の変化をしなければ計らいごとの否定は不可能なのではないかと思う。
無分節は分節が無いということか、分節をしないということか。
もし分節が無いということなら分節をしたことになるし、
もし分節をしないということなら分節はあるということになる。
この二つは矛盾するものではない。これが仏法の面白いところかもしれない。
その昔聞いた話は本覚思想をあまりよく理解していないのかもしれない。凡夫が凡夫のままというのは
凡夫とは何かを知っていなければならないわけで、凡夫とは何かを知っている凡夫なんてものがいたらその凡夫は悟っているとしか言い様がない。
つまり迷いの視点から同じにしている、などということはない。
>「リストラ」という概念は、「リストラ」という言葉ができる前の時代にも適用できる。
その通りだと思う。そして前の時代にあったわけではなかったと知っていれば適用しないこともできる。
ではその適用したりしなかったりしているのは誰。
二次的要素というのをどのような意味で使っているかはよくわかっていないかもしれないけれど、
慈悲と悟りや解脱を一次的であるとか二次的であるとかに分けて考える必要はないと思う。
理論とその体現に齟齬があるべきではないから。
それに竜樹と釈迦の言っていることにさほど違いがあるようにも見えない。
まず仏教というものが認知されているかどうかも異なる。それなりの下地があった竜樹は素直にそう言えたのかもしれないけど、
(多分)はじめてこの理論を悟った釈迦からすれば「たくさんの世界の生きるもの全てを背負う覚悟」
をいきなり他の大勢の人に要求していいものだろうか、と疑問を持っても仕方がない。
それに導くことよりも重要なもの、というのは例えばどういうことなのだろう。
動画は拝見させてもらいました。大体においては同意するけど、
>そして計らいごとは否定するけど、認識の変化は必要だと思う。
というのは順序が異なるのではないだろうか。つまり認識の変化をしなければ計らいごとの否定は不可能なのではないかと思う。
無分節は分節が無いということか、分節をしないということか。
もし分節が無いということなら分節をしたことになるし、
もし分節をしないということなら分節はあるということになる。
この二つは矛盾するものではない。これが仏法の面白いところかもしれない。
その昔聞いた話は本覚思想をあまりよく理解していないのかもしれない。凡夫が凡夫のままというのは
凡夫とは何かを知っていなければならないわけで、凡夫とは何かを知っている凡夫なんてものがいたらその凡夫は悟っているとしか言い様がない。
つまり迷いの視点から同じにしている、などということはない。
>「リストラ」という概念は、「リストラ」という言葉ができる前の時代にも適用できる。
その通りだと思う。そして前の時代にあったわけではなかったと知っていれば適用しないこともできる。
ではその適用したりしなかったりしているのは誰。
>>904
物理的な境界は完全に恣意的なものだと思う。
ただ「言葉以前」というものが何なのかよくわからない。
「コップ」を観た時、コップという言葉がなければ直感は不可能であるように思える。
それはcupとか日本語片仮名のコップとかの、文字化されて記述されたり発音されたりする「語」ではなくて、
>「形は~材質は~何に使うもので~だから」
とかいうものを統合した我々の把握する「言葉」に、コップというものがなければ識別できない。
物についての境界はまさに言葉の境界であって、逆にその「ある種の人格障害者」の方がむしろ
確固たる言葉の直感がない、物の境界が曖昧な人のように思える。
それですら形や材質という把握の形式をさす言葉があるのだから、言葉以前ではない。
物理的な境界は完全に恣意的なものだと思う。
ただ「言葉以前」というものが何なのかよくわからない。
「コップ」を観た時、コップという言葉がなければ直感は不可能であるように思える。
それはcupとか日本語片仮名のコップとかの、文字化されて記述されたり発音されたりする「語」ではなくて、
>「形は~材質は~何に使うもので~だから」
とかいうものを統合した我々の把握する「言葉」に、コップというものがなければ識別できない。
物についての境界はまさに言葉の境界であって、逆にその「ある種の人格障害者」の方がむしろ
確固たる言葉の直感がない、物の境界が曖昧な人のように思える。
それですら形や材質という把握の形式をさす言葉があるのだから、言葉以前ではない。